2012.01.30

連載小説「鬼椿の記者聴取」――黒い球跡⑨

 相川は下唇を舌の先で湿らすと、直球を投げ込むように応えた。
「神楽坂の『お京』というスナックのママです」
「意外なネタ元だね」
 相川は説明するのだった。「村瀬が喧嘩をして利き手の親指に大けがをしたあげく、江戸川中央病院の整形外科で極秘に治療をしている――ママはそう店の客から聞いたと耳打ちしてくれたんです。病院に行って担当の南医師に当たると、ノーコメントを繰り返したんですけど、否定しなかったので事実だと確信しました。このあと何人かの看護師に当たって、村瀬が父親と野球部の部長に連れられて江戸川中央病院に入ったことを確認したんです。金属バットみたいな鈍器で殴られた打撲痕だったので、事故ではなく喧嘩したのは本当だろうと南医師が話していた、との証言も看護師から得ました」
「看護師はよくゲロしたな」
「一人の看護師ががぺらぺらしゃべったのではありません。四人の看護師の断片情報を集めた結果です。僕が社会部記者ではなくてスポーツ部の記者だと知って、彼女たちは安心したようでした」
「それは相川くんの人徳というか、取材力だよ」椿原は褒めてから欠点をついた。「当の村瀬からは取材してないんだね」
「していません。自分なりに考えて、そう決めました」
 社会部では通らないことだが、椿原は聞き流した。
 相川は背筋をのばした。こうして眺めると体育会系そのもののようだ。
「村瀬を取材しなかったのは、建前と本音の二通りの理由からです」
 椿原は「ほおぅ」と驚いてみせ、どういうことなのか言ってみろと目顔で催促する。
「自分も野球をやっていたので、村瀬のフェアプレー精神を期待した、つまり自己申告して欲しいというのが建前です」
「なら本音は」
「ドラフト前に取材すると、村瀬サイドから進路妨害で訴えられるのではないかと懼れました」
「なるほど」と椿原は応じた。進路妨害などという罪名はないが、プライバシー侵害罪は考えられる。しかし村瀬が親指に複雑骨折した事実があれば、報道の自由のほうが勝るだろう。
「記事が出たあとで、喧嘩をして骨折したというのは誤報で、襲撃されたのが真相だと、村瀬は言い出さなかった」椿原は首を斜めに傾げて続けた。「村瀬が沈黙したのは、相川くんが言うところの建前の重みを彼が知っているからだろうか」
 相川は首を振った。「そんなレベルではないと思います。指名から外されただけでなく、野球ができなくなるかもしれないので、村瀬はショックの底なし沼にいるはずです」
「そういう意味では、相川くんが書いた記事どころではないんだ」
「ドラフトが終わってから村瀬は行方をくらましています」
「行方不明?」
「家族や監督は知っているはずなので失踪事件とはちがいます」
「そういうことか」
「いったい誰が、村瀬は襲撃されて骨折したと言ってるんですか」
「警察だよ」
 椿原は押しつけるように言った。
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は2月6日にアップ予定です)

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2012.01.23

連載小説「鬼椿の記者聴取」――黒い球跡⑧

                   2                           
 椿原が定時の午前十時前に法務デスクに入ると、短髪の男がパイプ椅子に座っていた。背が高く肩幅があり尻の大きな男である。
 男は椿原に気づくや、冬眠中に水を浴びせられたクマみたいに飛び上がった。
「椿原さんですか!」
「ええ、そうです」
「スポーツ部の相川です。江守デスクから話を聞いて伺いました」
「きみが相川くんか」と椿原は言った。「早い時間からご苦労さん」
 チェックの柄が入ったブレザーと紺地のシャツに臙脂のネクタイ。社会部の記者と比べて派手さは否めないものの、相川からはスポーツマンらしいにおいが伝わってきた。
 椿原は相川の横をすり抜けてスチール机の前に座った。パンツの右ポケットから小銭入を取り出して、そこから小さなキーをつまんだ。そのキーで机の右側の引き出しを開けた。引き出しの中には中央新聞を相手取った訴状や告訴状のコピーを日付順に重ねてある。民事で損害賠償を請求してきた訴状が大半だ。代理人の弁護士による警告書や催告書や申入書も混じっている。
 そうした文書の一番上に置いていた捜査照会書を手に取ると、スチール机越しに相川に差し出した。たぶん見たことのない書類のはずだが、江守から内容を聞き及んでいるのだろう、彼はさっと目線を流しただけだった。
「そこに書いてあるように、文書で回答しないといけないが、何も詳細に答える必要はない。だが、俺には詳しく話してもらおうか」
「あの記事のどこが問題なのかさっぱりわかりません」
 相川は角張った大きな顔を、左右に小さく振った。髪にも顔の艶にも、三十七歳とは思えない若さがある。しかしながら彼の目は難症の病人のように不安に満ちていた。
 椿原は相川のごつごつした手を見て、それから再び生彩のない瞳を直視した。
「相川くんが書いた記事には、一カ所だけ決定的な間違いがあるようだね」
 相川は、えっという形に口を開けた。そのあと床に顔を向けて、自分が書いた記事を反芻するかのように一考した。ひょいと上げた顔は曇っていなかった。
「間違っていればクレームをつけられるはずですが、そうしたことはありません。いったい誰がそんなことを言っているのですか、どこが間違いだと言っているのですか」
 椿原は唇を横一文字に引いて、じっと相川を凝視めた。彼は目を逸らさなかった。記事に関するかぎり自信を持っているようだ。
 椿原は告げた。「村瀬が親指を複雑骨折したのは喧嘩が原因ではなく、何者かに襲撃されたというんだよ」
「襲撃された――?」
「イーグルスに入団させないために誰かが襲ったんじゃないかと」
「そんなバカな」
 相川は唾を飛ばした。顔が変形するほど驚いている。
「村瀬が喧嘩して負傷したというのは、月谷氏から得た情報なの」
「いえ、ちがいます」
 椿原は、机の上の運動面の記事コピーに目をやった。
「相川くんが書いた記事の情報源は、月谷氏じゃないのか」
「ちがいます」相川は即答した。「村瀬の複雑骨折は僕が月谷さんに教えました」
 意外だった。椿原は、てっきり月谷がリークしたと推測していた。それだけに絵解きの修正を迫られる。
「捜査照会書の回答に記載するつもりは毛頭ないんで、誰から聞いたか教えてもらえないだろうか」
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は1月30日にアップ予定です)

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2012.01.16

連載小説「鬼椿の記者聴取」――黒い球跡⑦

 日付が変わって午前一時過ぎに朝霧から椿原の携帯に電話がかかってきた。パジャマに着替え、ベッドに寝転がってミステリーを読んでいたときだった。
 社会部の事件担当デスクに比べたら、法務デスクの拘束時間は五分の一以下だろう。その分、椿原の楽しみは社会部時代に比して五分の一に減ってしまった。
 朝霧は遅版のゲラをチェックするために社会部に上がっていた。
「柳橋署は本庁抜きでやっているようだな。もっとも所轄事件の類といえばその程度かもしれない」
「戒名は?」椿原は即座に訊いた。
「傷害事件だ。ただし喧嘩による傷害ではなく、村瀬は何者かに襲撃されたと言っている」
「襲撃された?」
「ドラフトのあとで、村瀬が出した被害届はそうらしい」
「村瀬のでっち上げだろうか」
「何とも言えないな」
 朝霧の声には酔いが含まれていた。
「大丈夫か、飲み過ぎじゃないのか」
「デスクになってから酒の量が増えたよ」
「俺もおまえさんも独り暮らしだから、無茶して身体をやられても自分で自分を介抱するしかないんだぜ」
「……そうなんだよね」
 朝霧はしんみりとなったようだ。学生結婚した奥さんが二人の子どもを引き連れて夜逃げならず昼逃げしてから、彼は涙腺がことに弱くなった。それだけ感情の起伏が激しくなったともいえる。己に腹が立ったあげく、つまらんことで部下に八つ当たりをするなよと、椿原は自戒を込めて時折忠告している。
 朝霧は話を引き戻した。「柳橋署の刑事課長は、本件は村瀬潰しの襲撃事件だとの確信を持って、やけに張り切っているらしい」
「村瀬潰しって、どういうことだい」
「野球をやれないように、何者かが村瀬に危害を加えたというんだな。もしそうだとするなら、村瀬をイーグルスに入団させたくない奴がいるんじゃないか」
 椿原は携帯を握り直した。「月谷は村瀬をイーグルスに取りたかったんだから、仮に襲撃事件が起きていたとしても、月谷と相川は被害者寄りとみなせるんじゃないか」
「それはそうかもしれないが、昼間、おまえさんが言ってたじゃないか。民事の訴状より厄介な捜査照会書だって」
 確かにその通りで、頭のなかではわかっている。しかし椿原は、スポーツ部の記者が襲撃事件の容疑者だなんて考えられなかった。考えたくもなかった。
 椿原は耳朶をつまんだ。「柳橋書が襲撃事件で捜査しているとなると、相川はどう関わっているんだろう」
「そこのところは夜回りでもまったくわからなかった。刑事課長は、被害届を受理して捜査中だが、なぜ中央新聞で喧嘩と書いたのか興味をもっていると言ったそうだ」
「思わせぶりではあるな」
「いずれにしても、おまえさんが相川から事情聴取したら、だいたいのことはわかるだろう。後で教えてくれよ」
「わかった」と椿原は応じた。「これだけ材料をもらったんで助かるよ」
「何なりと言ってくれ」
「ありがたいね」
「法務デスクの案件は社会部がいちばん多いんだろう」
「多いね」
「おまえさんが法務デスクにいてくれるので心強いかぎりだ」
「社会部のサポーターを自認してるさ」
 椿原はことさら陽気に言った。
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は1月23日にアップ予定です)

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2012.01.09

連載小説「鬼椿の記者聴取」――黒い球跡⑥

 社会部の遊軍席はいつ来ても騒々しかった。活気があった。この職場を離れて一年半になる。社会部長の津田孝一郎から、社会部デスクの選択肢を与えられずに新設の法務デスクを命じられた。津田はこう言ったものだ。
「朝霧と椿原は俺の右腕と左腕だと思っている。あくまで性格の問題として話すと、朝霧は特ダネのためなら人肉でも喰らうだろう。椿原は人肉を喰らわずに特ダネを取る手段がないか考えるんじゃないか。ともあれ二、三年我慢して、裏方で社会部を助けてくれ」
 要するに、がむしゃらの度合いが椿原のほうが少なく、だから朝霧より特ダネが少なく、だから朝霧のほうが社会部の事件担当デスクなったということだ。法務デスクを引き受けた自己嫌悪から心にケロイドをつくったのは、津田に異を唱えることができず、彼に押し切られて新聞づくりの現場から離れたことにある。
 朝霧は社会部のデスク席に立っていた。巨体の後ろ姿を見せて、若手に何やら指示を与えている。これから外出するようで、セカンドバッグを小脇に抱えていた。
 ほんの七秒ほどして、朝霧はいかつい肩をぐるりと反転させた。椿原を認めると「おう、どうした」と言った。
「ちょっと顔を貸してもらいたいんだ」
 椿原は仰々しく周囲を見渡した。朝霧はぴんときたようで、人差し指を通路のほうに向けた。社会部の《島》から離れようという意味だ。警視庁ボックスで辛酸を舐めつくした同期だけに、こうした阿吽の呼吸は完成されている。
 椿原は踵を返して、朝霧に背を向けた。渦巻くような雑音が心地よく背をたたいて、やがて遠のいていった。言論局の近くまで来てから、朝霧が横に並んだ。
「何があったんだい」
 椿原は捜査照会書を手渡した。「相川というスポーツ部の記者が、柳橋署から呼び出しを受けそうなんだ」
 朝霧は捜査照会書を手にして、エレベーターホールの端っこで開いた。さっと読み終えると、椿原の前に来て言った。
「相川には嫌疑ありか」
「捜査照会書だから、民事の訴状よりは厄介な代物かもしれない」
「まあ、そうだな」
「柳橋署には昔のネタ元が一人もいないんで、おまえさんに探りを入れてもらおうと思ってさ」
「柳橋か……俺のダチもいないが、よし、わかった。警視庁キャップに内密に話して、夜回りで取材させるよ。戒名がわからないことには構えようがないだろう」
 事件記者のいう《戒名》は、殺人とか詐欺といった事件名の隠語である。捜査本部が立ったときや、逮捕状の請求をスクープするときは《戒名》がポイントになる。
「今夜、遅くなっても構わないので、俺のケイタイに電話をくれると有り難い」
「そうするよ」朝霧は捜査照会書を椿原に手渡した。「ドラフトの水面下では、何億円もの裏ガネが動いているようだから、カネ絡みの事件かもな」
「スポーツ部の庶務担デスクに会ってきたところだが、相川はカネにも女にもきれいだと太鼓判を押していた」
「人間って奴は、表もあれば裏もあるぜ」
 そう言って、朝霧はエレベーターのほうに太い首を突き出した。昇降ランプが五階で止まった。椿原は朝霧の幅広い肩を押した。
「宜しく頼むな」
「わかった」
 朝霧は巨体をエレベーターの箱に押し込んだ。
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は1月16日にアップ予定です)

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2012.01.02

連載小説「鬼椿の記者聴取」――黒い球跡⑤

 江守の説明では、相川が遊撃手として明立大野球部に入部したとき、月谷は三年生エースとして神宮のマウンドに立っていた。二人とも高校時代に甲子園の土を踏んでいるが、相川は六大学ではレギュラーになれなかった。大学三年の夏に野球を続けることを諦め、スポーツ部記者を志願して中央新聞に入った。そんな相川に対して、月谷は六大学野球の有望株となり、イーグルスに二位で指名されて入団した。
 相思相愛でイーグルスに入団した月谷だったが、一年目こそ四勝三敗と新人の合格ラインをクリアしたものの、二年目からは肩を壊したこともあって中継ぎに回された。だが、月谷の肩は完治しなかった。スピードが落ちると変化球も鋭さがなくなり、その年のオールスター戦を迎えるころには二軍に落ちてしまった。
 結局、月谷は一軍に上がることができず、わずか四年でプロ野球人生にピリオドを打った。その後、野球を愛する熱意と人柄を買われて球団職員に採用される。スカウトマンとしての新たなスタートを切ったのだ。スカウト稼業は月谷の存在を光らせたようで、現在イーグルスで活躍している何人かの選手はもちろん、FA権を行使して大リーグ入りしたスーパースターも彼が見い出している。この逸材を発見したことでスカウト部長に抜擢された。
「相川と月谷についてはスポーツ部記者と球団のスカウト部長という関係でみるより、明立大の野球部人脈で捉えたほうがいいな」
 心なしか、江守の口調は澱が溜まっているようであった。相川は新聞記者としての節度を越えて月谷に接している、と暗にほのめかしたのだろうか。それを言うなら社会部の警視庁担当記者とネタ元の刑事との関係だってそうだろうし、政治部の派閥記者など最たるものだ。
 椿原は声を落とした。「相川記者はイーグルスに利する記事を書いたことがあったのでしょうか」
「う~ん」江守はわざとらしく唸り、すぐさま真剣な表情を覗かせた。「批判記事は書いていないね。月谷がスカウトした選手を持ち上げるというか励ます記事は書いている。だが、プレーするのは選手だから、相川の記事がイーグルスという球団を利するかとなると、さほど影響はないと思うよ」
「なるほど」椿原は相槌を打ってから、念を押した。「ファンから非難される記事は書いていないのですね」
「そうだね」と言って、江守は続けた。「むしろ相川は、他球団の情報を秘かに月谷に流しているかもしれない」
 椿原は想像をまじえて訊いた。「セリーグ班のキャップをしていたら、部員がかき集めてきた他球団の情報を管理できるので、その情報を流したということですか」
「事件記者をやった人は鋭いね」江守は唇の端にうすら笑いをうかべた。「ま、そういうことだが、相川はプロ野球界で一番人気のイーグルスから特ダネを取れるので、そうしたことを差し引いてもお釣りがくるよ」
「なるほど」椿原は吐く息を強めた。「江守さんは、この捜査照会書で思い当たることはありませんか」
「まったくないね」江守は断固たる口調で応えた。「相川は月谷という一人のスカウトを慕っているだけのことで、カネにも女にもきれいだから事件とは無縁だと思うよ。新聞記者には珍しく純粋というか、人を疑わないというか、まぁ、万年スポーツマンシップ青年といったところだ。ただしスポーツマンシップよりも、先輩と後輩の関係を大事にしているかもしれない。もっとも当の本人は意識してないだろうがね。いずれにしてもきれいな男だよ、その点は自信をもって言っておく」
 確たる意思表示をした江守を見て、椿原は黙って首を縦に振り下ろした。
 江守の話から、相川の人物像がそこそこわかった。甲子園出場の球歴は意外である。かつて少年野球の選手だった新聞記者は少なからずいるだろうが、甲子園の土を踏んだ者となると少ないはずだ。
 ともあれ相川に直接会って事情を聴くしかないだろう。椿原は明日中に相川を法務デスクに寄越して欲しいと頼んでから席を立った。
 その足で編集局の中央通路を東側のコアに向かって歩いた。電話の音。走る靴音。耳慣れた大声……。山形や新潟といった、東京から遠く離れた地域に配られる朝刊の早版をつくる作業が始まったようだ。椿原はちょっぴり感傷に駆られて整理部の《島》を右に見て、それから古巣である左の《島》に移動した。
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は1月9日にアップ予定です)

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2011.12.26

連載小説「鬼椿の記者聴取」――黒い球跡④

 椿原は江守の横に立って、彼の肩をぽんと軽くたたいた。意外と華奢だった。体育会系ではなさそうだ。カシミアの黒っぽいブレザーを羽織り、白のハイネックセーターを着ている。
 江守は、スローモーションビデオのようにゆるりと顔を上げた。
「法務デスクの椿原です。江守さんが庶務担デスクと聞いたので、ちょっと相談したいことがあってきました」
「俺に?」
 江守は素っ頓狂な声をあげて、野放図に髭をたくわえている、自分の顔を指差した。
「スポーツ部長には、あとで江守さんから話していただけますか。そうした類の案件です」
「ともあれ、話を聞こうか」
 ここに来る前に社員名簿で確認したら、江守の入社年次は椿原より三年上だった。言葉遣いに注意を払ったほうが、この職務はやりやすい。
 椿原は怪訝な顔をしている江守の隣席に座った。この椅子は朝霧みたいな巨漢のデスクが使っているのだろう、スプリングが切れているため尻に固く当たった。
 スポーツ部長がいないうえ、江守の周りの席が空いていたので、この場で切り出した。
「実は柳橋署から、運動面の記事で捜査照会書がきたんです」
「警察から?」
 江守は太い眉毛を逆立て、細い目を剥いた。椿原は説明する前に、捜査照会書を江守に見せた。事件持ち場にいなくても、ある程度のことは察するにちがいない。
 案の定、江守はすぐに訊いてきた。
「名前を教えろということは事情聴取をするつもりだろうか」
「たぶん」
 椿原は江守を見て応えた。江守は大きな溜め息をついた。
「できるものなら拒否したいな。スポーツ部としては――」
 椿原は突き放すように言った。「相手は国家権力ですから難しいですね」
 江守は椿原をじろりと見返した。おまえは国家権力の見方をしていないだろうな、と窺う視線だった。
 捜査照会書を椿原に返すと、江守は胸の前で腕を組んだ。
「あの記事の反響は大きく、さすがは中央新聞だと読者室にお褒めの電話が何本もかかってきた。スポーツ部長もご機嫌さんだった。俺がデスク番のときに出稿したけど、警察にケチをつけられる記事ではないよ」
「私も読みましたが、説得力のある記事です」椿原は正直なところを披露した。「あくまで私の推測ですが、記事の中身というよりイーグルスの月谷スカウト部長との関係で、刑事はあの記事を書いた記者から聴取したいんじゃないですか」
「そういうことなら、わからないでもないね」
 江守はそう応えて、資料部のほうに顔を向けた。半白の髭は顎から鬢のあたりまで生えている。椿原は髭面に向かって問うた。
「この記事を書いたスポーツ部の記者は誰ですか」
「うん」と言って、江守は椿原に目線を返した。「相川久志といって、セリーグ班のキャップをやっている。三十七歳になるんで、次の異動でデスクに昇進するかどうかってところだな。スポーツ部は社会部とちがって、デスクになる年齢が若いからさ。そのかわり俺みたいに十年もデスクをやらされる。ま、よけいなことだがね」
「この特ダネからして、相川記者はイーグルスに食い込んでいるようですね」
「それはそうだよ」江守は椿原の頭を押さえつけるような言い方をした。「相川と月谷は、明立大野球部の後輩と先輩の間柄なんだ」
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は1月2日にアップ予定です)

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2011.12.19

連載小説「鬼椿の記者聴取」――黒い球跡③

 椿原は反射的に社会部デスク席の内線電話の番号をプッシュした。だが、事件担当デスクの朝霧晃介はいなかった。柳橋署が何を調べているか探ってくれないか――と極秘に頼めるのは社会部広しといえども朝霧だけである。同期入社のうえ、警視庁ボックスで共に骨身をすり減らした朝霧が不在となれば致し方ない。
 椿原は中央新聞を綴じている新聞ばさみを持って、布製の簡易衝立の脇を抜け出た。
 中央新聞ビル六階の総務局フロアは新聞社というより、その佇まいは役所さながらである。総務部、人事部、経理部、資材部などが《島》をつくっている。ここではざわざわとした空気がないし、なにより怒声や罵声や歓声や驚声がない。立ち上がっている者も、銜え煙草をしている者も見られない。化粧のきつい若い女性は編集局より多いかもしれないが、たいていは黙って一人でパソコンに向かっている。
 六階中央のメーン通路を歩きながら、椿原は無人地帯に迷い込んだ気分だった。編集局から総務部に異動して一年半になるが、この印象は最初から変わっていない。
 たぶんに編集局が異様な空間なのだろうが、椿原は猥雑な音と人間のにおいが好きだった。ことに社会部の《島》は今もって強い愛着がある。
 経理部と総務部の中間に二台のコピー機が置かれている。これらの機材はいかなるときでも粗大ゴミのように見えた。コピー機の開店休業状態など編集局では考えられない。編集局の十三台のコピー機はゴールのないマラソンランナーみたいなものである。
 椿原は捜査照会書が指摘している運動面の記事をコピーした。
 法務デスクに戻るや、内線電話で交換にスポーツ部デスク席の番号を聞き、すぐさまその番号を押した。法務デスクの椿原だと名乗ったうえで、庶務担当デスクは誰かと訊いた。江守というプロ野球担当デスクが兼ねているとのことだった。
 江守圭司は今朝の午前三時まで朝刊番デスクに就いていたので、午後の四時過ぎに出社してくるという。社会部や政治部に比べて、スポーツ部はデスクの人数が少ないのでローテーションが過酷のようである。
 ここでスポーツ部長に、柳橋署から捜査照会書が届いたと告げて直接渡しても、庶務担デスクに振られるのはわかっている。椿原は江守が出社してくるまで待つことにした。

 午後五時を回ったところで、椿原は六階の西側コアから階段を下りて編集局に出た。五階は西側コアから東側コアの言論局に向かって、資料部、スポーツ部、家庭部、学芸部、科学部、国際部、社会部、経済部、そして政治部といった《島》が続いている。メーン通路を挟んで、こうした《島》と向き合っているのが整理部、校閲部、地方部、写真部、事務部、メディア部などである。
 スポーツ部の《島》はがらんとしていた。社内にいてスポーツ取材ができるわけもないので当然といえば当然だが、活気がないのはプロ野球がシーズンオフのせいもあるだろう。テレビに見入っている者は皆無で、六台並んだテレビは二台しかついていなかった。
 江守は二人分の机を占拠して、各紙の夕刊をチェックしていた。
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は12月26日にアップ予定です)

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2011.12.12

連載小説「鬼椿の記者聴取」――黒い球跡②

 椿原は必ずしも運動面の熱心な読者ではない。だが捜査照会書に書かれている見出しの記事は読んでいた。村瀬が指名されなかった疑問が頭のなかでくすぶっていたからだ。この記事はそうした疑問に答える特ダネだった。
 何かと問題のあるドラフト制度だが、もっかのところ大学生と社会人の選手は、球団順位の一位と二位までは逆指名制度を利用できる。だが高校生は、未成年ということもあって逆指名権が認められていない。
 高校球児の村瀬哲は「イーグルス以外のチームから指名を受けたら六大学に進学して、逆指名権の得られるまで待ちたい」と、ドラフト前に明かしている。大学野球をプロ野球の予備校に見立てて《ドラフト浪人》を宣言し、他球団に牽制球を投げたのだ。これを受けてイーグルスも村瀬を上位で指名したいと公言した。
 このとき椿原は毎度お馴染みの出来レースに小腹を立てたものだ。ところがイーグルスはドラフト会議で村瀬を指名しなかった。喜びの表情を狙って、東京都台東区の柳橋商に陣取っていたテレビ局の中継車は、村瀬の茫然とした表情をクローズアップさせた。イーグルスの越田茂雄監督は「昨日のフロント会議で、今年は即戦力となる打者を補強する方針に変更したため、村瀬くんを指名しなかった」と説明した。
 何度も放映された場面なので、よく憶えている。何かあるなとみていたが、その答えを中央新聞が特ダネで報じたので、椿原は運動面の記事を興味深く読んだ。
 椿原は書棚ロッカーの前にある新聞掛に目を向けた。中央新聞の他にライバル各紙の朝刊と夕刊を新聞ばさみで綴じてある。総務局のアルバイト学生が毎日やってくれるのだ。
 一カ月単位で中央新聞を綴じてある新聞ばさみを手にすると、その場で捲った。十六日付の運動面に載った記事を再び読んだ。
【今年のドラフトの目玉、柳橋商の村瀬哲投手が東京イーグルスから一位指名を約束されながらも土壇場で指名されなかった真相がわかった。村瀬投手はささいなことから喧嘩に巻き込まれ、右手の親指に複雑骨折を負っていたのだ。
 この事実を把握したイーグルスは、村瀬投手の負傷がボールを握る右手の親指だったことから、ドラフトの直前に緊急会議を開いて検討した。その結果、投手生命に影響を与えかねないと判断して、村瀬投手の指名を断念したという。
 イーグルスは村瀬投手に対して、ドラフトで指名をしない旨を伝えるかどうか迷ったようだが、当の本人から自己申告があってしかるべきだとの結論に達したとみられる。
 投手より打者の補強を優先することに突然変更したとイーグルスがコメントしたとき、何か裏があるのではと噂が噂を呼んだ。ドラフト会議の当日、他球団の監督やスカウト部長らがイーグルスの村瀬外しに驚きながらも、重大な理由が隠されているにちがいないと推量して、あえて獲得に乗り出さなかったことも、こうした噂に拍車をかけたようだ。一部報道では裏ガネをめぐるトラブルをにおわせていたが、真相が明らかになったいま、イーグルスの苦渋の選択が理解されることになろう。
 イーグルスのスカウト部長、月谷直昭氏は「本人はもちろん、ご家族や柳橋商の監督にも何度か会っており、そのつど上位指名を約束してきただけにつらい気持ちです。将来のエースの獲得をこうしたかたちで断念せざるを得なかったのは、返す返すも残念でなりません」と無念そうに話した】

 椿原は熟読したが、この記事に引っ掛かるところはなく、事件に結びつけることはできなかった。文句なしの特ダネだろう。
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は12月19日にアップ予定です)

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2011.12.05

連載小説「鬼椿の記者聴取」――黒い球跡①

         1

「こんなものが届いた。そちらで処理してほしい」
 総務部長の桂山欽二は手にした茶封筒を、真上から押しつけるようにスチール机の上に放った。
 椿原伸兵が机上に手を伸ばし、その封筒を手に取ったとき、桂山は細い背を見せていた。目を合わせずに踵を返したのだった。
 総務局のフロアを書棚ロッカーで仕切ったにすぎない、この法務デスクが桂山にとって鬱陶しい存在であるのは一人主の椿原が身にしみてわかっている。新聞記事や記者の取材活動をめぐる訴訟沙汰やトラブルを一手に扱う法務デスクには、重苦しい空気が確かに充満していた。桂山がこの空間に違和感を覚え、社会部からやって来た事件屋の椿原を苦々しく思っているのは想像に難くない。
 椿原は一度頭を振って、桂山の残像を追い出してから、封書を目の前に持ってきた。桂山宛に届いたもので、差出人欄には警視庁柳橋警察署長である景浦充のゴム印が押されていた。
 意外な封書――であった。
 これまでに法務デスクが扱ってきた訴訟や告訴沙汰の文書は社長宛が多い。その次が社会部長宛だろう。すべて事務的に法務デスクに回ってくるが、差出人は代理人の弁護士がほとんどだった。今回のように総務部長宛で、しかも差出人が所轄の署長というのは初めてである。桂山がいつも以上に不機嫌なのはこのせいだと、と椿原は判じた。
 椿原は文書の中身をはかりかねた。両肘を机に突いて、すでに封を切ってある封筒から一枚のペーパーを取り出した。
[様式第四九号(刑訴第一九七条)]。パソコンに接続されたプリンターで印字したと思われる定型書面に[捜査関係事項照会書]とあるのを確認したとき、椿原の胸に嫌な予感がはしった。
【捜査のため必要があるので、左記事項につき至急回答されたく、刑事訴訟法第一九七条第二項によって照会します。
              警視庁柳橋警察署長 
              司法警察員 警視正 景浦充
  中央新聞社総務部長    桂山欽二殿
        照会事項
 貴紙の十一月十六日付朝刊の運動面について、左記事項を調査のうえ文書による回答を願います。
 一 『ドラフトの真相―村瀬投手の指名外しは右手親指の複雑骨折』と題する記事について、プロ野球・東京イーグルスのスカウト部長、月谷直昭から取材した経緯、及び取材記者の氏名。
 二 その他参考事項。
   連絡先 柳橋警察署刑事課 皆戸辰典警部補】

 椿原は珍しく緊張した。名誉毀損やプライバシー侵害の類ではなく、内偵捜査に関することで、しかもスポーツ部の記者が捜査対象になっているとみられる。単なる参考人として聴取するだけなら、こうしたもったいぶった捜査照会書を送りつけてくるわけがない。
 刑事課の皆戸警部補は、この記者を特定したうえで、形式的に中央新聞に問い合わせてきたにすぎまい。わが社の回答を待って、当該記者の事情聴取が行われるのは必至だろう。
 柳橋署がどのような事件を内偵しているのか、照会文書ではつかみきれない。しかし、高校球界のスーパー投手と呼び声の高い、私立柳橋商の村瀬哲をめぐって、何らかの事件が起きているのは間違いなかった。
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は12月12日にアップ予定です)

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2011.11.28

連載小説「鬼椿の記者聴取」――盗用の顛末⑳

 大森は神妙な表情をしているがこれも演技かもしれない。椿原はつい穿ってしまう。人の好い金子教授はまともに受け取っているように見えるが、あるいはすべてわかったうえで教授は大人の解決をしようとしているのだろうか。
「大森さん」 金子教授は呼びかけた。顔を見合わせてから、ひと呼吸置いて告げた。
「クリスマスまでに青森に行っていただけますか。三人の子供とその母親の墓参りをしていただけたらと思います。このことは私のほうから宗山さんにはかりました。墓参りという古くさいことしか私の頭では思いつきませんが、宗山さんは承諾してくれました。だから、お願いできますか、大森さん」
「はっ、はい」大森は突然、舞台に飛び出したような声をあげた。「こうして私の不徳を教えていただき、しかもお墓参りの機会まで与えていただき感謝にたえません。しっかりとお参りさせていただき、大森伝一郎はこれから過ちなき第二の人生を歩みますと墓前で誓ってきます」
「ありがとうございます」教授はあくまで温厚な紳士だった。「ということですので、宗山さん、宜しくお願い致します」
 宗山は小さく頷いた。大森は宗山に向かって上体を深く折った。
 このとき椿原は、大森が本当に赤い舌を出しているのではないかと思った。そんなことはないだろうと言い聞かせても、この期に及んで役者になろうとする大森のことだから、疑念は消えないのだった。
 ついに椿原は、口にするつもりのなかった台詞を毅然として爆発させた。
「このたびの論文盗用については、お詫び記事をクリスマスの後に出させていただきますので、紙面的な解決をはかることができます。そのうえで宗山さんのお気持ちを斟酌して、大森がけじめをつけることも必要だと私は痛感しました。そこで大森には懺悔の記事を書いてもらおうと思います」
 大森に顔を向けると、彼は唇を尖らせて、椿原に噛みつくような顔を見せた。椿原は大森の赤い舌を引き抜くつもりの強い意志で、彼に投げつけた。
「中央新聞に《記者の視点》というコラムがありますよね、大森さん。そのコラムで、新聞記者を卒業するに当たり、駆け出し時代の青森支局で特ダネ写真を取ったと自慢してきたが、そこには思い上がりがあった、なぜなら事故死した子供の母親を自殺させたからだと書いてもらえますか」
「そんな記事を編集局長が認めるかね」
「新聞には、こうした検証記事が求められています。私は大事な《記者の視点》だと思います。過ちを素直に認めて、退職する前に記者の良心を再確認させてもらった、と語るのは恥ずかしいことではなく、むしろ中央新聞の評価を高めるはずです。それに若い記者の教訓にもなります」
「…………」
 椿原は大森が黙ったのをいいことに、宗山に向き直って伝えた。
「ということですので宗山さん、クリスマス後にお詫び記事と懺悔の記事の両方を出すことでご理解していただけますか」
 宗山は椿原を見つめて、ゆるりと首を縦に振り下ろして言った。
「新聞社らしく、新聞の紙面で誠意をみせてくだされば、何も言うことはありません」
 大森は畳に額をこすりつけた。
「寛大なるご配慮と、誠に温かいお気持ちをいただき、衷心から御礼申し上げます」
 宗山はあくまで冷ややかだった。金子教授は仏のようだった。
 金子邸を出たところで、大森は火を吐くように口走った。
「椿原くん、言論委員に懺悔の記事を書かせるなんて、噴飯者じゃないかね」
 大森はがらりと態度を変えた。本性を現したといったほうがよいだろう。
 椿原は負けじと反発した。「そこまでしないと宗山さんの新聞不信は消えませんよ。小学校三年生の子供に、新聞記者は泥棒猫みたいなものだと植えつけた責任は小さくありません」
「大昔の話じゃないか。それに社会部では、土下座してでもネタを取ってこい、と始終言ってるじゃないか」
「ネタを取ったあと、赤い舌をぺろっと出していいとは誰も言っていません」
「三十年以上も昔のことだ、いまさら何を言うんだ」
 椿原は法務デスクとして大森に投げつけた。
「新聞記者の仕事に時効はありません」
 大森は深い息を吐いて、苦々しく言った。「今日は誠意のかぎりをつくした。それなのに、まだ誠意が足りなかったというのかね」
「あんなウソっぽい辞職願を持ち出して、何が誠意ですか。人の好い教授だから騙されたにすぎないですよ。もしかすると騙された振りをしているだけかもしれません」
 大森は言葉に窮して黙り込んだ。辞職願を大学に出すつもりはなかったようである。
「大森さん」と椿原は口調をやわらげて言った。「結婚する娘さんのためにも、金子教授と宗山さんの前で約束したことは守らないといけませんよ」
 椿原はくるりと背を向けた。それから足早に歩いた。大森は追ってこなかった。
 チチッ、チチッと、先ほど耳にした小鳥の声が降ってきた。  (了)

     (登場人物を含めてすべてフィクションです。「盗用の顛末」は今回で終わです。「鬼椿の記者聴取」は次回12月5日から「黒い球跡」をアップ予定です)

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