2012.05.14

連載小説「鬼椿の記者聴取」――法廷証言2

 夜の赤坂で繰り広げた経済部の記者とデスクの立ち回りを頭に描こうとしても、椿原は彼らの動きを容易に想像できなかった。鼻柱や肋骨を折ったり、前歯を吹っ飛ばすくらいなら力の限り拳骨を振るえば可能にちがいない。しかし自在に動かせる相手の右腕を捕らえて、さらには指を三本もへし折ることがそんなに簡単にできるだろうか。あるいは竹中は無抵抗だったのだろうか。
 朝霧は続けて説明するのだった。「竹中デスクはその場にしゃがみ込んで呻き声をあげていたところを、救急車で近場の啓聖会赤坂中央病院に搬送された。右手の指以外に負傷はないし、骨折した三本の指もちゃんと処置できたんで完治するそうだ」
「どうせなら社内でやって欲しかった、と言ったら不謹慎か」
「俺だって同感だ。なんせ衆人環視のなかの暴行傷害事件だ。一一○番通報を受けて駆けつけてきたお巡り(制服警官)に有無を言わさずに手錠をかまされた。まぁ、当然ではあるがね」
「デスクの指をへし折るような記者が中央新聞にいたとはな……」
「俺はこれまでに殺してやりたいと思ったデスクが二人いたよ。おまえさんだって何人かいただろう」
「ああ、いたさ。殴りたいと思ったデスクは片手では足りない」
「前向きな議論をぶつけられたり、まともな説教をしてくるのならわかるが、暴言を吐くか、人格否定に終始するデスクは困りものだ」
「新聞社のデスクは徒弟制度の継承者だからさ」
「良くも悪くも、そういうことだろうね」
「それでどうなんだい、現役の社会部デスクとしては」
「しみじみと思うのは、殴りつけたい若い記者が多すぎる」
 椿原はつい笑った。立場が変わればそんなところだろう。とりもなおさず朝霧が、取材記者としても社会部デスクとしても優秀であるからに他ならない。そうしたことを踏まえて椿原は感懐をこめた。
「お互いに素直に年をとれそうにないな」
「諦めてるさ」朝霧は言ってから、生真面目な調子に戻った。「相手が誰であれ、新聞記者が暴力を振るったらお終いだ」
「ペンの暴力も然りだね」
「法務デスクらしい言い方だな」
 この台詞は、椿原にこたえた。編集局にいない寂しさと劣等感に似た感情を抱えているだけに、きっと顔が歪んだことだろう。《心のケロイド》がちくりと痛んだ。電話の向こうの朝霧に感づかれないように、椿原は陽気な声を発した。
「もっとも公人の悪徳を糾弾するペンはいくら暴力的であっても、法務デスクは歓迎するぜ」
「何かと尻拭いをさせて悪いな」
 中央新聞の記事をめぐるトラブル処理が椿原の主な仕事だけに、朝霧は本当に申し訳ないと思っているようだ。
「社会部が威勢のいい原稿を出して、金権政治家がやけくそで訴えてきたときの処理は法務デスク冥利だ。遠慮なくやって欲しい」
「そう言ってくれると心強い」
「それより本題だけど、他紙に書かれそうなのか」
 つい法務デスク的な訊き方をしてしまう。特ダネ競争とは別の意味でライバル紙の動向は気になる。
「今のところ気づかれていない。野次馬たちも引っ張られたのが中央新聞の記者だとは知らないはずだ」
「ならば、赤坂中央署しだいだな」
「その点は大丈夫だ」携帯電話の向こうで、朝霧は強調した。「奥田署長は、俺が捜査一課のキャップのとき一課の管理官をしていた。ネタ元に近しい存在といってもいいな。その奥田さんから電話があって、内密に処理するので示談書と嘆願書を提出して欲しいと耳打ちされたんだ」
「送検しても起訴猶予処分が出るようにやってくれるんだな」
「手筈が整えば、身柄だって今夜中に釈放すると言ってる」
 ――ということなら一件落着だから、朝霧がわざわざ電話をかけてくることはない。椿原はこの電話の真意を問うた。
 朝霧は苦みを含んだ声で答えた。「せっかく奥田さんが手心を加えてくれるというのに、何とも厄介なことが持ち上がった。だから、おまえさんの法務デスクから電話をかけているんだ」
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は21日にアップ予定です)

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2012.05.07

連載小説「鬼椿の記者聴取」――法廷証言1

           1

  緩やかに延びている坂道を見上げていると、目の前の坂が真夜中の空と繋がっているようだった。坂のはるか上に千切れ雲が浮かんでいた。雲は半月をかすめて流れていく。まもなく別の大きな雲が現れ、やがて月はしばし光を失った。
 一陣の風が、坂の上から滑り落ちてきた。風は頬を撫でた。かぐわしい匂いがあった。椿原伸兵は坂道の途中で足を止めて、深々と息をした。甘酢っぱさが口の中にひろがった。そういえば夜回り先の路地に溜まっていたのが、この香りだったなと思い出した。
 あのころは、この香りを嗅ぎながら、路上にじっと立って、刑事の帰りを待っていた。夜が更けると月が冴え、空気は冷え込んだ。そんな深まりゆく秋の夜の香り、それが椿原の知っている金木犀であった。
 ああ、今年も秋らしい季節になったなと、椿原は感じ入った。在りし日を金木犀の芳香に重ねると、いくばくかの感傷を覚える。切なさが背中に貼りついてくるようだった。
 突然、携帯電話が鳴った。こんな時間に誰だろう……。
 地下鉄千代田線の根津駅にほど近い小料理屋を出たのが午後十一時過ぎだった。その時間に六分も加えれば、腕時計を見なくても今の時刻はわかる。椿原はスーツのポケットから携帯電話を取り出した。液晶表示に朝霧晃介の名前が出ている。
「夜分に悪いな、結論から言うよ、赤坂中央署まで行ってもらえないだろうか」
「何があったんだい、社会部員の不始末か――」
「いや、うちの部員じゃない」事件担当デスクをしている朝霧は部下の不祥事を否定して、言った。「経済部の若い記者がキンタイ(緊急逮捕)で持っていかれた」
 椿原は、坂の上から流れてきた金木犀の香りが与えてくれた、ほのかな感傷を瞬時に捨てた。一年半前から社会部を離れているとはいえ、こうした一報を耳にしたとき、あらゆる感情を凍り漬けにしてしまう心的メカニズムが今も働く。これは骨の髄までしみ込んだ習性で、心の被膜をびりっと一枚はがされたみたいな感覚とでもいえようか。
 何をしでかしたんだい、と椿原が問う前に、朝霧は言った。
「田町通りのタクシー乗り場で、経済部の竹中デスクの指を折ったんだ」
「穏やかじゃないな」
「異常だよ、右手の指を三本もへし折るんだから」
「三本か――」
「ああ、そうだ」
「つかみ合いの喧嘩でもしたのか」
「いや、いきなりへし折ったようだ。親指と小指を残してな」
 椿原は耳の奥で、ぼぎぼぎっという鈍い音を聞いたようだった。経済部の竹中デスクと話したことはないが、彼の顔は知っている。小柄で神経質そうな男だ。紙面扱いが悪いと整理部に噛みついては、やり合っているところを幾度か目撃した。竹中は小さな不満を大きな怒りに爆発させるタイプとみられ、若い部員とも衝突しそうではある。とはいえ若手記者が一方的に暴力を振るったのであれば、その記者に弁解の余地はない。
(登場人物を含めてすべてフィクションです。次回は14日にアップ予定です)

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