平和をたずねて②
◎毒ガス島の伝言
■おぞましさに全身を貫かれ■
初夏の日差しはやわらかく、瀬戸内海はまばゆく輝いていた。広島県竹原市の忠海港からフェリーに乗り、国民休暇村で知られる大久野島に向かう。ものの10分もすると、島の雑木林から巨大な廃虚がのそりと姿を現した。鉄筋三階建て、コンクリート造りの残滓を目の当たりに見て、私の旅人気分はすっとんだ。廃虚は火力発電場跡で、島がまるごと日本軍の毒ガス製造工場だった事実を、こうして今に伝えている。
ふいと脳裏をよぎったのは地下鉄サリン事件の映像だった。毒ガスは目に見えないだけに、ばらまかれた様を想像すると、じわっと背筋が冷えてくる。しまいにはおぞましさに全身を貫かれる。そんな毒ガスを日本の軍隊はつくっていたのである。
1927(昭和2)年8月のことだった。陸軍は大久野島を忠海兵器製造所の軍用地にすると通告して、3戸あった農家を立ちのかせた。不況が長引いていたこともあって、町をあげて軍需工場の設置を喜んだという。ところが2年後に完成したのは、なんと毒ガス製造工場だった。
フェリーからおりると、大久野島毒ガス資料館を訪ねた。こぢんまりとした館内には、防毒マスクや毒ガスを詰める手投げ茶びんから液体毒ガス製造装置の一部さらには工員手帳などなどが並ぶ。いずれも痛ましい、そして哀しい展示品であった。
この島で製造された毒ガスは、吸い込むと肺を冒すびらん性の猛毒「イペリット」、強い皮膚障害をきたす「ルイサイト」、それに青酸ガス、くしゃみ製ガス 催涙ガスもある。1925年のジュネーブ議定書で、毒ガス兵器の使用は禁止された。だが日本は批准せずに、陸軍は大久野島を地図から消して、秘かに毒ガスを大量生産したのだった。
館内の大型ビデオから流れる声に思わず耳をそばだてた。「毒ガス兵器は、当時長期化しつつあった日中戦争で使用するため中国大陸へ送られ実戦で使われたと言われます。日本軍の毒ガス使用にによる死傷者は数万人と言われ、毒ガスの人体実験も行われたとされています」
中国大陸では、兵士に限らず子どもやお年寄りも、この毒ガス苦しめられたにちがいない。そうして何人が死んでいったのであろうか。
このやりきれなさは、決して過去のことではなかった。イペリットはマスタードガスとも呼ばれ、イラクがイランとの戦争で使っているからだ。
やけどを負ったように顔や手や足の皮膚がただれたイランの男の子のパネル写真を前にして、私はしばらく動けなかった。
■「人道兵器」と洗脳■
地図から消された島――大久野島の毒ガス史は、この人を抜きには語れない。村上初一さん、82歳、毒ガス資料館の初代館長である。なんといっても高等小学校を卒業した14歳の春から終戦を迎えるまでの5年半の間、毒ガス工場で学び働いてきた。確然たる生き証人。毒ガス資料館からの帰途、くしくもこの島を眺望できる、広島県竹原市の高台に村上さんを訪ねた。
ざっと70年前、村上さんが小学生のころ、大勢の工員が船で大久野島に通勤していた。彼らをじろじろと見ようものなら憲兵に捕まったそうだ。本土を走る電車にしても、島側の窓はすべて覆われた。もちろん工員たちの口封じは徹底していた。
村上さんは島に新設された陸軍の技能養成所で3年間学んだ。当然、化学の教科が多かった。だが「毒ガス」の名称は使っていない。すべて色で表示したといい、たとえば「茶」はシアン系をさした。
「化学兵器人道論」の授業は特異だった。村上さんは内容をそらんじている。「化学兵器は、その戦闘力を減殺するのが目的である。そのためには強いて人を殺す必要はない。ガスは拡散して広範囲に多数の負傷者を出す特性を持っているが、その傷害は一時中毒を起こすのであって後には快復するので、これは致死的ではない。故にその死亡率も究めて低いので人道的である」
私は首をひねった。この非常識を養成工は真に受けたのだろうか。その点を尋ねると、村上さんはゆるりとうなずいた。「皇軍の兵器をつくるという、ある種のほこりさえありましたからね。私たちは挙国一致の精神教育に洗脳されていたのです」
養成所から工場勤務になると、時々熱が出るようになる。38度を越すと、さすがに苦しくて島内の医務室に駆け込んだ。歯科までそろえた総合病院並の医務室を併設していたと知り、工員の悲劇の一端をかいま見た思いだった。
村上さんは「急性気管支炎」の病名をつけられた。同じ症状の工員が毎日150人は医務室に来ていたという。〈島は毒ガスに汚染されてる、大久野島は「大苦之島」なのか……〉。17歳の村上さんは身震いを抑えきれなかった。
戦後、恐れていた事実、知らなかった事実が次々と明るみにでた。元工員たちの毒ガス後遺症と日本軍による中国大陸での毒ガスの使用や遺棄……。村上さんは断固たる口調になった。「毒ガスの被害と加害はしっかりと語り継いでいかねばなりません」
初代館長に村上さんを迎えて、「大久野島毒ガス資料館」がオープンしたのは1988年4月のことである。
■ガン発症に怯え■
大久野島は瀬戸内海に浮かぶ周囲約4㌔の小さな島である。南側の海に面した毒ガス資料館のそばに化学兵器廃絶の宣言碑が建っている。大きな石に刻まれた一文に、私は目を奪われた。「……工員・徴用工・学徒・勤労奉仕ほかの人々は、働いているときはもとより、仕事をやめた後も呼吸器などの毒ガス障害に悩まされ、癌の恐怖におびえた毎日を送っている。死没者はすでに千名を超えたが……」
昭和60年5月12日とあるので、この年の建立だろう。毒ガス後遺症の詳細を知りたくて、呉共済病院忠海分院の前院長・行武正刀さん(73)を訪ねた。広島大学医学部を卒業して、1965年から毒ガスに苦しむ患者を診てきた。9年前に定年を迎えたが、いまも嘱託医として勤務している。
行武さんによると、毒ガス障害に医師が気づいたのは52年の夏だった。30歳の元工員が血痰と全身の倦怠を訴えて広島大学病院に入院した。地元の病院は肺結核と診断、しかし肺ガンだった。その原因を調べると毒ガス工場で働いていたことがわかり、初めて毒ガス障害の実態がクローズアップされた。これを機に忠海町で集団検診が始まった。
圧倒的に多い症状が咳と痰で、行武さんはこう説明する。「薄い毒ガスといえども職場環境が劣悪だったので、長年の工場勤務で呼吸器の粘膜が悪化したのです。だから工場勤務がなくなっても、ひと冬ごとに症状は悪くなる一方でした」
忠海分院には約4000人のカルテがある。鬼籍に入った患者も少なくない。慢性気管支炎と息切れ状態の続く肺気腫が主な症例だが、肺ガンになるケースも多くみられる。行武さんは話す。「呼吸困難の患者さんは息苦しそうで、お気の毒です。一言しゃべるたびに不自然な呼吸を余儀なくされますし、真夜中に激しく咳きこむのは体力を消耗します」
行武さんは2年前、イランに出かけてイラクによる毒ガス被害者に会った。2歳の幼児は目を冒されていた。「戦争で使われた毒ガス兵器の恐ろしさは想像を絶するものでした。今後は生存者のなかに肺ガンが増えてくるのではと心配されます」
そう聞くと、集団検診が始まるまでに死亡した元工員たちの人生に思いを馳せざるをえなかった。行武さんは、心なしか声を震わせた。「初期の患者さんは症状がひどかったはずなので、苦しんで苦しんで死んでいったと思われます」
このとき私は行武さんの目に涙の膜を見た。まじめに生きてきた人たちを、こんなに苦しませていいのですか――。無言ながら、行武医師の目はそう訴えているようだった。
■差別、偏見、苦しみ今も■
大久野島にフェリーが着くと、乗客は赤色の桟橋を渡って島に入る。夜来の雨もあがり好天に恵まれたその日、私は岡山県笠岡市立新吉中学の生徒たちの後に続いた。2年生53人の先頭に立つのは引率の教師ではなく、元高校教師の山内正之さん(62)だった。平和学習で島にやって来る生徒たちのボランティアガイドを務めている。
一行は毒ガス資料館に直行し、大久野島の歴史と毒ガス兵器についてビデオで学んだ。このあと山内さんは生徒に語りかけた。「皆さんはここに来る前に、広島の平和記念資料館で原爆の悲惨さを知ったでしょう。大変な被害を受けました。今日はビデオにあったように、この大久野島で製造した毒ガスが、中国の人たちにいかにひどい加害を与えたか、そのことを知ってほしい。毒ガスも原爆と同じで、そこにある生命をすべて傷つけます。そういう歴史があるということを学んでほしい」
山内さんが毒ガスに関心を寄せたのは、中国・黒竜江省で大久野島製の毒ガス後遺症に悩まされている7人の証言を直接聞いてからだ。1997年7月のことで、日本軍が終戦時に遺棄した毒ガス缶に触れて事故に遭った中国人の被害を検証しようと、村上初一さんが代表を務めていた「毒ガス島歴史研究所」が呼びかけたツアーに参加した。
山内さんは振り返る。「呼吸器や皮膚などが冒されたうえ、いわれなき差別や偏見で苦しんでいました。人生を狂わされたと聞き、毒ガスは過去の問題ではないと痛感したのです」
侵略された中国の人たちは、今も毒ガス事故の恐怖にさらされている。地雷や劣化ウラン弾もそうだが、人間同士の争いは終わっても、平和はずっと遠くにある。戦争の罪は計り知れない。
慰霊碑の前で山内さんはハンドマイクを握った。「ここには大久野島で毒ガスを製造したり、戦後の毒ガス処理に従事して亡くなった人たちの名簿がおさめられています。犠牲になった人たちの気持ちを受け止めて、ノーモア毒ガス、ノーモア大久野島と訴え続けましょう」
生徒たちは昼食を挟んで島内に残る毒ガス貯蔵庫跡や工場群跡などを、山内さんの案内で見学した。私は彼らが一心に聞き入るのを遠巻きに見守った。
後日、生徒たちは感想文を書く。森田祐衣さんはこうつづった。「毒ガスの恐ろしさと被害を受けた人たちの苦しみが分かりました。絶対に毒ガスを造ったり使ったりしてはいけないと思いました」
山内さんは言った。「教育の場は教室だけではありません」。教科書に載っていない平和学習が大事なことを、私はこの目で確認した。
■被害実態を広く知らせて■
大久野島毒ガス資料館を訪れて日がたつにつれ、大小5枚のパネル写真が脳裏に占める割合が増した。イラン・イラク戦争時にイラクが投下した毒ガスにおかされたイランの子どもたちの悲痛な姿は、深く鋭く私に突き刺さってくるのだった。
この写真の展示を毒ガス資料館に申し出たのが、広島市のNPO法人「モーストの会」と聞いた。理事長の津谷静子さん(52歳)を津谷内科呼吸器クリニックに訪ねた。彼女は薬剤師で、夫が開業しているクリニックに勤めながら、医療支援ボランティア「モーストの会」を主宰している。「モースト」はロシア語で「懸け橋」を意味するそうだ。
4年前から毒ガスの被害に遭ったイランの村を次々に訪問している。今年も6月23日から10日間ほど5人で行ってきた。西部の村ネサーレディーレは人口が1000人足らずのところに、15発ものマスタードガスが投下されたという。
「大勢の村民が今も後遺障害に苦しんでいます。呼吸器障害のひどい方も多く、各家庭には旧式の酸素ボンベが置いてありました」津谷さんは声を詰まらせ、そして続ける。「視力障害の人は黒目の部分にリング状の傷があります。大久野島では見られなかった障害で、それほど強い毒ガスだったのです」
被害者が求めたのは医薬品でも医療機器でもなかった。津谷さんを驚かせた一言は「私たちのことを広く知らせて欲しい」。実は「モーストの会」の一行が初めての外国人という村も珍しくなかった。
津谷さんは決断する。イランのNGOと協力し合って、毒ガス被害者5名以上を含む約10人を広島原爆の日の記念式典に招いて交流会をすることにしたのだ。交流会は2004年からさっそく始まり、今夏もイランから9人が参加した。毒ガス資料館では日本軍が毒ガスを製造した事実を公表していることに賛同し、平和記念資料館では原爆の破壊力に驚き、被爆者の強い生き方に勇気づけられる――これはイランからの訪問者に共通していた。
彼らは希望を胸にイランに帰り、広島を見習おうと声をあげた。その成果を今年の訪問で津谷さんは確認した。テヘラン市内の公園に平和資料館がオープンし、そばに高さ11㍍の平和モニュメントが建っていたからだ。これには目をみはった。毒ガスだけでなく原爆の被害を紹介する写真も展示されていた。除幕式は津谷さんたちを待って行われた。
「毒ガス被害を周知させることが最大の薬だったのです。医薬品ではなく、心の薬がいかに大事かを教えられました」。そう言って、津谷さんは深い瞳を輝かすのだった。(この項おわり。07年6月の毎日新聞に掲載)
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