◎平和をたずねて⑤ 続ビキニ事件
◎平和をたずねて⑤ 続ビキニ事件 政治の影絵
■政府の姿浮き彫り■
「侵略とは何も強力な軍隊に依り侵されるだけではない。姿なき武器、水爆放射に依る空中の汚染も大きな侵略と考えられる」
静岡県・焼津市歴史民族資料館の一角に常設している「第五福竜丸コーナー」に掲げられた一文である。ビキニ事件(1954年3月1日)に遭遇した第五福竜丸の元無線長、久保山愛吉さんが病床で書いた手記だという。この後に続く言葉に、私は目を奪われた。
「こんなことを書けば思想が何だかんだと申しましょうが、既に事件直後調べたそうですから私の思想はおわかりの事と思います」
第五福竜丸の23人の乗組員は思想まで調べられたというのだ。そこに何があったのか。それはビキニ事件から半世紀を経て明らかになる。広島市立大広島平和研究所助教の高橋博子さん(39)が、米国立公文書館所蔵の機密解除された公文書の山のなかから暴き出した。
「米ソの軍拡競争が激しくなっていたので、米原子力委員会はCIAに第五福竜丸のスパイ調査を依頼したのです。その報告文書を見つけたとき、被害者を生み出した側がそのような視点で乗組員の思想信条まで調べていたのかと驚きました」高橋さんはつけ加える。「ここまで露骨な調査に協力しながら、日本の外務省はその事実を否定しています」
このとき私の脳裏を、沖縄返還協定をめぐる密約事件がよぎった。密約を裏づける公文書が米国で見つかりながら、密約の存在を否定し続ける政府答弁と重なる。国民を欺くのは、政府の体質であろうか。
ビキニ事件では、日米の裏工作ともいえる実態が高橋さんの分析で、いっそう見えてくる。
その年の9月に久保山愛吉さんが40年の生涯を閉じると、日米両政府は原水爆禁止運動が高まるのを警戒し、早期解決を目指す。米国が見舞金を二○○万ドル(当時の日本円で7億2000万円)支払うことで合意した。政府は水産業界などの損害は約25億円になると見積もったが、三分の一の金額に抑えられた。
アリソン駐日米大使が当時の重光葵(まもる)外相に宛てた書簡にこうある。「すべての請求に対する完全な解決として、受諾するものと了解します」
高橋さんは指摘する。「米国は見舞金を支払い、日本政府は受け取ることで、水爆による犠牲者が出た責任を問われることなく放置されてきました。問題のある政治決着です」
さらに驚くのは、放射能に汚染されたマグロの調査を打ち切ったことだ。公文書は米原子力委員会の関与を裏づけ、同調する日本政府の姿を浮き彫りにした。
高橋さんは厳しい口調になった。「反対の声を無視して調査を打ち切ったことで、その後にマグロを食した人々を含め潜在的なヒバクシャが大勢生まれました。放射能被災を放置する状況をつくりだしたといえます」
ビキニ事件は、相も変わらぬ国際政治の力学と非情の国家主義を映し出している。
■ヒバクシャ切り捨て■
自分の名前を書いた人が、なんと3200万人に達した聞くと、今さらながら驚かされる。ビキニ事件(1954年3月)をきっかけに全国にひろがった原水爆禁止運動で、国民の3人に1人が署名したのである。プレスコードの解除で、広島と長崎の被爆の実相が周知されたことがもちろん大きい。自ずと原爆と水爆への反対運動になり、「原水爆」の言葉はすんなりと定着した。
世論は政府を動かし、第五福竜丸の乗組員の被災を無視できなくなる。それまで国立予防衛生研究所に置いていた「原爆症調査研究協議会」の拡充と強化に乗り出し、「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」に改めて、当時の厚生省に設置された。
この年の9月に元無線長の久保山愛吉さんが亡くなった。翌月に開かれた第1回総会で、草葉R[隆、圓、りゅう、えん]R・厚生相はこう述べた。「過般のビキニ被災事件の発生に伴い、第五福竜丸乗組員の原爆症とその他の後遺症に関する調査研究を併せ行う必要が生じました」
また医学部会でも、乗組員の健康不安は懸念された。予後に対する検討がなされ、「若干名には将来非常に長期に健康管理の必要が残るだろう」との指摘があった。つまるところ第五福竜丸の乗組員をヒバクシャと認めていたのだ。しかし政治は国家の都合を優先する。米国が見舞金を出し、受け取った日本政府は完全解決を承諾した。この政治決着によって、ビキニ被災者は切り捨てられた。
第五福竜丸の他に「死の灰」を浴びた漁船は延べ約1000隻とみられるが、被災乗組員は沈黙を強いられた。いや、ヒバクシャを名乗るダメージを前にして、自ら沈黙を通したというべきか。原水爆禁止運動に参加していた漁業関係者の数も目に見えて減っていった。
それでも当時の社会党参議員だった山下義信さん(故人)は原爆医療法(1957年4月施行)を論議する過程で、対象者を広島と長崎だけでなく「水爆実験の被災者」まで考えていたようだ。当然、第五福竜丸の乗組員も含まれる。だが、対象を広げることに与党の自民党は難色を示し、それに同調するかのように山下案は消えていく。当時の二大政党の思惑が、歴史のベールの向こうにうかがえる。
私は京都の龍谷大学法科大学院に田村和之教授(65)を訪ねた。「原爆訴訟を支援する広島県民会議」の代表世話人で、被爆者行政に詳しい。田村さんは山下案について、こう解説した。「当初はビキニ被災者まで含めてひろく救済を求める意思はあったようですが、政府は予算の制約を理由に、戦争による放射線被害者に限定しました。だからビキニ被災者だけでなく、原爆の爆風や熱線による障害者も除外されたのです」
第1回原水爆禁止世界大会のアピール文には「広島・長崎・ビキニ」の併記が見られる。しかしビキニ事件のヒバクシャに、被爆者健康手帳が交付されることはなかった。
■沖縄の悲劇再び■
「ビキニ事件は未解明な部分が多いのですが、なかでも沖縄は深刻でしょう」
高知県宿毛市の「幡多地域文化ゼミナール館」の一室で、社会科の高校教師だった山下正寿さん(63)は顔を曇らせた。私は聞き耳を立てた。
高知県南西部の高校生が自主的に平和学習に取り組む「幡多ゼミ」は、ビキニ事件で被災した漁船員の追跡調査を23年前から続けてきた。このゼミを率いるのが山下さんで、顧問団長を務める。
「当時の沖縄は米国の占領下にありました。米国は自らが行った水爆実験について、占領下の沖縄で、どう対処したのか――」山下さんはひと呼吸おいて切り出した。「結論から言えば、沖縄の悲劇を見た思いでした」
太平洋ビキニ環礁で米国が1954年に行った水爆実験による海洋汚染は黒潮に乗って拡大し、沖縄の近海にまで達した。第五福竜丸が「死の灰」を浴びた3カ月後のことである。このため沖縄近海で獲ったマグロは放射能に汚染され、大阪に入港した漁船だけでも25隻がマグロの廃棄処分を余儀なくされている。
ところが沖縄では、公式には「放射能マグロ」は1匹も検出されていなかった。幡多ゼミの高校生が沖縄県のマグロ漁船を追跡するなかで突き止めた。この裏づけ調査は、山下さんが副団長を務める高知県ビキニ水爆実験調査団と沖縄県平和委員会の合同で4年前から本格的に始まった。
その結果、米軍は2隻の遠洋マグロ漁船の検査をしていた。船体と乗組員に異常はなくマグロは再検査する、そう言われたとの証言を元船長から得た。しかし再検査の報告はなく、マグロは市場に水揚げされなかった。マグロの売上金が入らず、元船長の妻は生活に困ったと、山下さんに打ち明けている。
「このマグロは放射能に汚染されていたので、再検査をする前に廃棄処分したと推測されます。その後の検査は異常なしとのことですが、これは米軍に情報操作されたか、米軍よりの見せかけの検査をしたからでしょう」山下さんは厳しい口調で続けた。「放射能に汚染された魚が沖縄の市場に出回った疑いが強いのです」
すでに54年の歳月が流れた。だが、放射性核種のストロンチウム90の半減期は29年、セシウム137は30年だから、やはり人体への影響が気にかかる。
ビキニ事件での被災漁船は延べ約1000隻といわれ、第五福竜丸はその1隻にすぎない。「幡多ゼミ」が被災漁船員の追跡を続けるなかで、がんなどにより若くして亡くなった乗組員が目立つという。
「高知の被災漁船員の話では、船に乗った仲間の葬儀に出るたびに、今度は自分の番かもしれないと非常に不安にさらされています」山下さんは断じた。「沖縄はもちろんそうですが、人間の命を粗末に扱った政治的責任は今も免れません」
■第四の平和運動へ■
ビキニ事件の取材を重ねるにつれ、ため息をつく回数が増えた。出口のない暗闇をさまよい歩いているようで、閉塞感は否めない。第五福竜丸の被災から54年を迎えた今年のビキニデーもそうであった。
好天に恵まれた3月1日、静岡県焼津市の弘徳院で「墓前祭」が午前と午後にわかれて行われた。いずれも同じ趣旨の平和行事だ。広島と長崎に次ぐ第三の核犠牲者となった第五福竜丸の元無線長、久保山愛吉さんの墓前で反核平和の決意を誓うのである。
原水爆禁止運動はもともと党派を超えて、国民運動の感が強かった。しかし東西対立の世界情勢のなかでイデオロギー色が強くなり、共産党系の原水爆禁止日本協議会(原水協)と旧社会党・総評系の原水爆禁止国民会議(原水禁)に分裂した。この分裂はビキニデーに限らず、「原爆の日」の平和行動もそうである。
核兵器のない世界を――のスローガンを互いに掲げながら、その力を統一できないのは平和運動にとって何より不幸であろう。だから、多くの焼津市民は「運動」に政党アレルギーを抱いて離れた。ついには焼津市が乗り出して、1985年から反核平和行事「6・30市民集会」を主催するようになった。「3・1」を避けたとはいえ、6月30日は見舞金により政治決着した日なので、この市民集会へ反発する声も小さくない。
こうした不幸な事態を少しでも打破できないものか。私は両団体の事務局を訪れて統一行動の可能性を問うたが、長年の亀裂は深く、残念ながら実現の可能性は低いと結論するに至った。
その足で、焼津市内の静岡福祉大学に向かった。学長の加藤一夫さん(66)は01年から04年にかけて「やいづ平和学」の市民講座を開講した教授で知られる。第五福竜丸の乗組員や郷土史家、教師らがこぞって顔を見せ、意欲と熱気にあふれた公開講座となった。こうした市民レベルの場を待っていたのかもしれない。
2年後には、熱心な受講生らが中心になり「ビキニ市民ネット焼津」が誕生する。加藤さんは力説した。「政治対決型の運動はやりません。この町が平和運動の発祥の地であることを確認して、町おこしに寄与する、いわば第四の平和運動を目指しています」
東京から焼津に来て16年が過ぎた。少なくとも加藤さんの周囲では、ビキニ事件を意識的に避ける雰囲気が和らいできたという。
「少しずつ状況は変わっています」。加藤さんは声を弾ませた。「シンボルとなる第五福竜丸が焼津にないので、新しいシンボルを造ろうという機運も盛り上がってきました。水爆実験のなかで生まれた日本産のモンスターであるゴジラを、焼津の反核平和シンボルにできないかと議論し合っているところです」
東京の第五福竜丸展示館に対して、焼津の「ゴジラ平和館」というわけだ。焼津からニューウエーブが生まれ始めているようである。
■科学者の良心■
この人だけは書き留めておきたい、そう痛切に思った科学者がいる。気象庁気象研究所地球化学研究部長、東京教育大(現在の筑波大)教授を務めた三宅泰雄さん(1908~1990)だ。政治のベールに包まれた第五福竜丸の向こうに毅然(きぜん)として立つ三宅さんの像を、私は幾度となく見てきた。
ビキニ事件で、いち早く水爆禁止要求の声明を出したのが日本気象学会だった。各国政府と科学者に水爆実験の及ぼす気象学上の影響を調査し、その結果を公表するように訴えたうえで、水爆など大量破壊兵器の禁止を求めた。1954年5月20日の総会で採択された。ビキニ事件の2カ月後のことで、わが国の学会としては初めてだった。このとき尽力したのが三宅さんである。
その5日前には、政府の海洋調査船「俊鶻(しゅんこつ)丸」がビキニ事件の現場へと向かっている。気象班は三宅さんが責任者として仕切った。
「死の灰」を浴びたのが第五福竜丸だけではなく、ビキニ環礁から遠い海域で操業していた漁船も放射能に汚染されているとわかると、三宅さんは警告を発した。
「水爆による放射能灰は大気中の広範囲にわたっており、放射能雨が心配されます」
各地の大学や研究所で放射能雨の測定が始まった。諸外国でも公表された論文は少なく、日本の科学者による独自の調査といえた。三宅さんが案じたように5月中旬を境に太平洋沿岸に強い放射能雨が降り出した。ビキニ環礁の水爆実験の影響とみられた。
ところが9月下旬になって、日本海側でも強い放射能雨が観測される。三宅さんはこれはソ連の核実験によるものだと推断した。ソ連は水爆実験を行ったことを認めたものの、日本に影響を与えるものではないと、モスクワ放送を通じて反論してきた。折しも東西冷戦のただなかで、反米に対する親ソの立場から、ソ連の核実験を認める科学者たちがおり、三宅さんは彼らの攻撃にあった。しかし、自説を曲げる人ではない。55年1月24日付の毎日新聞にこう書くのだ。
「ソ連製の雨だろうといったため、ある人々のごきげんを損ね、大分、悪口をいわれたようである。しかし、日本人の立場からいえば、製造元はどこでも、とにかく、頭の上から放射能の灰や雨が降ってくるのは困るのである。(略)原水爆禁止の平和運動は、元来、人類史的な意義をもつものであった。鉄のカーテンでへだてられた両陣営のいずれかに加担すべきでないことはいうまでもなかろう」
第五福竜丸の保存運動に力を注ぎ、当時の美濃部亮吉・東京都知事とひざ詰めの談判をしたのも三宅さんならではだろう。都立第五福竜丸展示館を誕生させた保存運動から、今年で40年を迎えた。保存から展示館の運営まで担った三宅泰雄さんの言葉を最後に記したい。
「第五福竜丸は過去の歴史というより、むしろ未来の人類の命運を啓示している」
(この項おわり。2008年5月の毎日新聞に掲載)
