ルポルタージュ

2009.09.16

平和をたずねて⑦ 強制労働 証言のタコ部屋

◎平和をたずねて⑦
◎強制労働 証言のタコ部屋

  ■北海道開拓の陰で■

 そもそも取材の発端は、今年5月に京都の龍谷大で開かれた「墨描・中国人強制連行の図」展だった。札幌市在住の画家、志村墨然人さん(85)が13年前から描いてきた20点が披露されたのだが、縦172㌢横364㌢の大作もあり、ともかく迫真にあふれていた。
 私が関心を抱いたのは墨絵もさることながら、志村さんの経歴だった。中国人労働者の収容寮で管理事務員をしていたというから、この絵は「内部告発」に等しい。
 「自責と償いをこめて描いてきたのであって、発表する予定などありませんでした。これだけまとめて展示したのも初めてです」志村さんは会場でそう語り、穏やかな口調で確かめてきた。「タコ部屋のルーツは、ご存じですね」。私はあいまいな返答しかできなかった。志村さんは嘆いた。「そのことがわかっていないと、中国人の強制労働は深く理解できないと思うよ」
 私は出直すことにして札幌市内の北海道開拓記念館を訪ねた。文字通り北の大地の歴史を知ることができる。「開拓期の社会問題」と題したパネルを読んだ。〈道路や鉄道などの建設事業には、多数の囚人や「タコ」と呼ばれた土工夫(土木労働者)が過酷な強制労働に従事させられた〉。当初は、政治犯を含む受刑者を開拓事業に積極的に投入している。殴る、蹴るの暴行を加えて、長時間にわたって酷使するので、犠牲者が後を絶たずに社会問題化した。掲げられた新聞記事の見出しに私は目を奪われた。〈病死土工は折檻の結果〉〈逃走土工が監獄行きを志願 部屋の酷使より好いと〉
 「囚人労働」が廃止されて「タコ部屋労働」が生まれた。こう解説している。〈本州各地から集めた土工夫を飯場に収容し、開拓のためのさまざまな土木事業に強制的に駆り立てる労働形態であった〉〈タコ部屋の多くは工事現場近くの山間にもうけられた。管理人―世話人―棒頭―取締人という組織のもとで厳しく監視されながら強制労働が行われ、多くのけが人や死亡者をだした〉
 「タコ」のルーツは北海道の開拓事業であった。地元で雇った地雇に対して、他所で雇った他雇は、斡旋業者の口車に乗せられた本州の失業者や貧しい農民が多かったという。戦局が厳しくなると日本人の男子は赤紙一枚で戦場へと行かされ、鉱山の採掘現場などは深刻な労働力不足に見舞われた。この穴埋めに朝鮮人と中国人がタコ部屋に連れ込まれたのである。
 その時、志村さんは22歳だった。1945(昭和20)年4月下旬、北海道・積丹半島の西海岸に近い発足村に鹿島組の「泰山寮」が完成した。といっても、解体済みの朝鮮人労働者用の宿舎を組み直したにすぎない。
 当時の現場跡を案内してくれた志村さんは、こう振り返った。「風呂もなく、タコ部屋そのものでした。別名を監獄部屋とも言い、出入り口は外からかんぬきを下ろし、窓という窓には木の桟がはまっていました」
 ここに196人もの中国人が連れてこられたのは、その年の6月5日のことだった。

  ■亡霊のような196人■

 海峡を越え、下関から列車に揺られ、北海道西南部の小さな村に連れてこられた196人の中国人は、亡霊のようだった。そうとしか見えなかったと志村墨然人さんは追想する。鹿島組玉川出張所「泰山寮」の管理事務員だった志村さんの前で、作業現場を預かる親方や木刀を手にして強制的に働かせる棒頭たちは「これじゃ使えねぇな」と舌打ちした。
「背負われたり、抱きかかえられた中国人も目立ち、痛々しいほど憔悴しきっていました。貨物船内で4人が死亡し、遺体を海へ投棄したとも聞きました」
 むしろ敷きの板の間に起居する彼らに支給されたのは、上下1枚の布団だけである。布団といっても名ばかりで、紡績工場で出る糸くずなどのゴミを詰めこんだ代物だった。薄汚れた衣服の着替えや傷んだ布製のクツの履き替え品はなく、着の身着のままであった。
 食事もひどすぎた。豆の粉を水でこねて、こぶし大に丸めて蒸し上げた「饅頭」しか与えない。それも食事時間に2個だけ配られた。副菜はなく、褐色の岩塩を湯にとかした塩汁が添えられたにすぎない。
 「こんなものを食べさせるのかと思いましたが、口に出せる状況ではなかったです」志村さんは無念そうに継いだ。「風呂がないこともあって、疥癬という皮膚病が悪化してきたので、イオウ入りの湯桶で行水をさせようとしたら、勝手なことをするなと上司からこっぴどくしかられました」
 そんな「泰山寮」の中国人労働者たちの仕事は、玉川鉱山で使う沈澱池の造成作業だった。彼らは終日、50キロの畚(もっこ)担ぎを強制された。典型的な「タコ部屋労働」であった。大幅な工事の遅れを取り戻すために、中国・山東省の日本軍済南捕虜収容所から連行してきた「捕虜」だと、志村さんは聞かされた。
 敵国の捕虜が死のうが、生きようが知ったことではない――タコ部屋には、そんな空気が充満していた。
 しかし戦後になり、彼らは「捕虜」でなかったとわかる。志村さんは語調を強めた。「山東省の村で見つけた中国人男性を、抗日運動をしていたなどと勝手にでっちあげて、日本軍は捕虜収容所に連れ込んだ。その後、傀儡政権下にある日本軍の息のかかった華北労工協会という組織を通じて、雇用契約を結んだように偽って日本に強制連行したというのが真相です」
 彼らの平均年齢は35歳だった。72歳の老人がいる一方で背の低い、色黒の小さな男の子がいた。名簿を見ると17歳だった。不審に思って志村さんが確かめると、実は14歳だと明かした。野良仕事をしていたら、大人と一緒に日本軍に拉致されたというのだ。
 「子どもを含む一般大衆まで、手当たり次第に引っ張ってきたのです」
 告発の墨絵を描き続ける札幌市在住の画家、志村さんの顔がゆがんだ。85歳の顔は、何もできなかった当時を懺悔しているように見えた。

  ■消えぬ死臭の記憶■

 札幌市在住の画家、志村墨然人さん(85)が執念の筆をとった「墨描・中国人強制連行の図」は23点が完成している。それぞれに志村さんの贖罪と自責の念がこめられた告発の絵図だが、あえて印象深い1点を選んでほしいと頼んだ。志村さんはためらわなかった。
 それは「無残や、熱気で膨れた死者」と題された墨絵である。腹部が破裂せんばかりに膨れた2人の中国人労働者の死の床を描いている。志村さんは語った。
 「眼窩が落ちくぼんだ顔は骸骨のようで、手足も棒きれみたいになっていました。でも、おなかは風船のように膨れて、薄くなった皮膚の下をオリーブオイルのような脂肪が流れているのです。体内に発生したガスによって腹部が膨らんだのだと思います」
 1945(昭和20)年の夏は日照り続きの猛暑が続いた。炎熱下の強制労働による病人や重傷者が後を絶たないため、「泰山寮」の横に傷病者を収容する小屋が造られた。7月末のことで、12畳ほどの板の間に7人から10人が瀕死の体で常時横たわっていた。先の2人は8月10日から11日にかけて、ここで相次いで死んだ。逃亡を防ぐため密閉状態にしていたので、熱中症にかかって亡くなったとみられる。
 志村さんは私を直視した。「医者がいるわけではないし、薬だってないのですから、いわば見殺しでした。もっと率直に言えば、見殺しにしてもいいとの前提に立っていたと思います」。それがタコ部屋制度のなかに潜む不条理であり、業態のおぞましい不文律であった。
 タコ部屋への中国人強制連行は閣議決定による。42年11月、東条英機内閣は閣議において「華人労務者内地移入ニ関スル件」を決定した。この方針によって、北海道から九州に至るまで全国135の事業場で、約4万人の中国人が強制労働につかされたのである。そのあげく6830人が非業の死を遂げた。
 火葬も志村さんの仕事だった。粗末な棺箱に納めた遺体をリヤカーに乗せて、火葬場まで3㌔の道を運んだ。死者が絶えず、いつしか通い慣れた道になっていた。
 2人の「熱気で膨れた死者」は、腹部が異常に膨れていたため棺箱に入らなかった。皮膚がむけ、体液がしたたり落ちる遺体は炎天にさらされた。今でも死臭を記憶している、と志村さんはつけ加えた。死臭の記憶。この言葉は私の耳に残った。
 「遺体は薪で焼くのですが、下腹部から胃にかけて、なかなか焼けなかった。ひどく臓器が傷んでいたからです」志村さんの目に、うっすらと涙が浮かんだ。「2人の魂は故郷に帰れるだろうか、仏教でいう極楽にいけるだろうか、念仏を唱えては自問した覚えがあります」
 燃えない遺体は、死にたくない、故郷の家族に一目だけ会わせてほしい、と訴えていたに相違ない。志村さんは敗戦までのわずか2カ月に、なんと15体の死者を見送った。火葬場には、中国人労働者たちの無念の恨みが積もっていたことだろう。

  ■終戦直前 必死の脱走■

 タコ部屋の朝は、起床を告げる午前5時の怒声に始まる。点呼の後、中国人労働者たちは近くの作業現場で強制的に働かされた。その日、1945(昭和20)年7月18日のことであるが、点呼の際に8人がいなかった。鹿島組玉川出張所「泰山寮」の管理事務員、志村墨然人さんが顔色をなくしたのは言うまでもない。
 姿を消したのは20代から30代の元気な部類の男たちだった。寮内をくまなく捜し、外に出ては目を凝らし、再び寮内に戻って見渡した。出入り口は施錠されており、窓という窓の桟も破られていなかった。
 「キツネにつままれたみたいでした。実は、砂地を素堀りした大便壺に潜りこんで土砂をかき出してはトンネルをつくり、そこから戸外にはい出ていたのです」
 今でこそ、「驚きましたよ、それは」と話す85歳の志村さんだが、当時はそんな状況ではなかった。鹿島組の秋田県花岡出張所「中山寮」で6月30日に中国人労働者が一斉に蜂起し、4人の日本人と親日とみられた中国人1人の計5人が殺害される事件が起きていたからだ。いわゆる花岡事件で、鎮圧後の拷問により7月の死者は100人にのぼった。ちなみに「中山寮」では986人中418人もの死者を出すなど突出していた。
 さて「泰山寮」だが、その日の夕方までに農家の納屋などに隠れていた7人を次々に見つけ出した。3日後、最後の1人を山中で発見している。志村さんは言った。「腹は減るし、作業はきつく、米軍のB29爆撃機が投下する爆弾も恐ろしい、それで必死で脱走したと、後で聞きました。彼らの気持ちは痛いほどわかります」
 岩内署に引っ張られたのは脱走した8人にとどまらなかった。中国人のまとめ役をしていた隊長と班長ら9人も連行されたのだ。そこでの拷問はすさまじかった。殴る、ける、逆さづりにする、鉄火箸を当てる……。志村さんが知り合いの巡査部長から耳にした話では、憲兵隊が加わると敵意をむき出しにしたという。
 たぶん生きては帰れまい、そんな観測が流れていたところ、隊長を除く全員が突然釈放された。異例ともいえる現場復帰であった。
 「この隊長は日本軍と抗戦していた国民革命軍第八路軍の将校だったとみなされたようです。憎むべき八路の将校なら、こいつだけで十分だ、脱走事件の首謀者として銃殺してしまえ、という意見が出たと聞きました」
 脱走事件から1カ月もたたない8月15日に戦争が終わり、17日に内務省は「中国人解放」の通達を出した。しかし隊長の拷問は23日まで続いた。志村さんはこう推断する。「憲兵隊は15日までに銃殺できなかった悔しさもあって、自白を強要しようとしたのでしょう」
 米軍の進駐が決まると、憲兵隊は態度を一変させて岩内署から去った。隊長は解放を装って、遠く離れた別企業の事業所に移された。
「あの隊長が本当に八路の将校だったかどうか……」志村さんは首をかしげた。「銃殺されなかったことだけが、せめてもの救いです」

  ■人間の深い闇■

 ひたすら描いては、そのまま眠りにつく。ただ、それだけの小さな空間に見えた。「墨描・中国人強制連行の図」の画家、志村墨然人さんのアトリエを訪ねたとき、私はつい口にだした。「水道がないのですか」
 志村さんは軽やかに答えた。「水は、お隣さんからわけてもらっています。それで十分、自炊できます」
 自宅は札幌市だが、アトリエは北海道岩内郡共和町にある。大陸から連行してきた中国人を強制労働につかせた作業場とタコ部屋のあった場所が近い。あえて志村さんが、この地を選んだのは不退転の決意の表れだろう。
 私は描きかけの絵図を見せてもらった。軍事裁判の法廷場面だから、これは穏やかではない。聞けば、労働者の通訳だった中国人男性と共謀した「華人労働者虐殺容疑」をかけられたという。こういうことである。
 昭和天皇の玉音放送が流れ、「タコ部屋労働」に終止符が打たれた1945(昭和20)年が終わり、新しい年を迎えた1月9日のことだった。北海道拓殖銀行の赤煉瓦の本店庁舎に置かれた米軍第77師団の司令部に出頭を命じられたのだ。凍えるような寒い朝だった。
 志村さんは振り返る。「最初は遠回しに何人死んだ、どういう処置をしたのかと追及してきました。そのあと軍用コルトを2丁手にして、『うそをついた人、銃殺ね』と威嚇するのです。相手は米兵ですから、震え上がりましたが、断じて虐殺などしていない、病死だったと言い張りました。事実そうですからね」
 志村さんの主張は通り、逮捕されずに済んだ。ことの真相は、中国人同士の主導権争いだった。二代目隊長を兼ねていた穏健派の通訳と強硬派の炊事班長が激しく対立したようだ。日本の敗戦で立場が変わったのだから、彼らの要求が強くなるのは当然でもあった。この炊事班長が事実を曲げて米軍へ密告したため、通訳と志村さんの上司や発足村駐在の警官、岩内保健所長らが「華労虐殺容疑」に問われた。通訳はすでに逮捕されていた。
 「上司たちは、札幌に行っていた若造の私にすべてをなすりつけたんです。それで私に、中国人労働者を虐殺した容疑がかかった」。志村さんは声を強くするのだった。「腹の底から、人間不信に陥りました」
 米軍による軍事法廷は1月16日から19日まで4日間にわたり、旧札幌市役所3階の大講堂に星条旗を立てて開かれた。虐殺の事実などありません、と志村さんは繰り返し、全員に無罪判決が下りた。通訳は泣いて喜び、体力の回復をまって、2月17日に帰国の途についた。
 「花岡事件があった秋田の事業所のように、人道の罪を問うBC級戦犯の事実はなくても、中国人をタコ部屋に入れて強制労働させたことはまぎれもありません。私が加害者の側にいたのも事実です」
 人間の深い闇を見た志村さんは、軍事裁判が終わると放浪の旅に出た。妻を見送り、72歳になって、告発の絵図の筆をとった。今、85歳を迎えた。絵図は未完である。志村さんの戦後は終わっていない。(この項おわり。08年9月~10月の毎日新聞大阪本社管内版に連載)

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2009.06.04

◎平和をたずねて⑥ 呉戦災

◎平和をたずねて
◎呉戦災 軍港都市の悲傷

 たとえば今から65年前――元号は昭和で、その18年のことである。造船と兵器製造の一大海軍基地を成した広島県呉市の人口は40万人を超えて、全国で10指に入っていた。軍港都市として隆盛の極にあった。呉海軍工廠は「長門」「大和」といった巨艦を次々と建造している。
 「夏休みに海水浴場で泳いでいると、沖合を戦艦、巡洋艦、駆逐艦、航空母艦とさまざまな艦船が往き来していました。この艦種を当てっこして遊んだものです」
 広島大学名誉教授の佐藤裕さん(76)は子どものころの思い出を、そう披露した。いかにも呉育ちらしい。
 佐藤さんは中学の1年になると、呉海軍工廠に勤労動員された。1944(昭和19)年の春である。工場内に防空壕を掘るのを手伝い、戦場から軍艦が呉に帰還すると、ペンキを塗り替える作業に汗を流した。
 ある日、焼けこげた塗装をはがしていると、水兵がもらした。「それは被弾して飛び散った人間の肉が焦げたものだよ」。これには佐藤さんも肝を冷やし、今も記憶に生々しく残っているという。
 飛行甲板の後部が裂けてめくれあがった航空母艦を見たときには、子ども心にも戦局が厳しくなっていると感じとった。米軍のB29爆撃機による空襲が日本全土で激しくなったころ、航空母艦「加賀」の航海長だった叔父が残した言葉を思い出したそうだ。
 「呉は最も防備の堅い街だから、心配しないでいい。もし呉が爆撃を受けるようなことがあったら、日本は戦争に負ける。そんなことはない、だから大丈夫だ」
 佐藤さんはこの言葉を信じた。以前にちらりと見た戦艦大和にしても、このような巨艦が沈むはずがないと確信したものだ。
 しかし大和は沈み、米軍機は大挙して呉にやって来た。45年3月19日午前7時20分、約350機の艦載機に呉軍港は狙い打ちされた。
 そのとき佐藤さんは呉駅に到着したばかりで、荷物倉庫に逃げ込んだ。荷物と荷物の間から目撃したのは、赤や黄や茶や白や黒の絵の具をぶちまけたような弾幕の色だった。高角砲や機関銃の激しい射撃音と炸裂音が耳に響いた。急降下した米軍機が機銃掃射の末に爆弾を落としていくと、真っ白い水柱が艦船を包んだ。
 水柱が消えた後には、傾いた艦船の姿があった。約3時間にわたる攻撃で、呉軍港に集結していた海軍の誇る艦船は壊滅的な打撃を受けたのだった。
 広島県福山市の自宅で、佐藤さんは振り返る。「日本軍による真珠湾攻撃と同じ光景が、目の前で展開されていると思いました。これが戦争なんだと――」
 軍人の叔父も死んだ。一緒に通勤していた学友も死に、街も焼けた。佐藤さんは押しかぶせるように言った。「呉は軍港であったがゆえに、宿命的な攻撃を受け、空しい破壊と死だけが残されました」

     ■  ■

 東洋一と喧伝された呉軍港が米軍の爆撃で壊滅的な惨害を受けてから、傷だらけの軍艦がぽつぽつと港を離れていった。戦場に行けないので、瀬戸の島影へ転錨を余儀なくされたのだ。いわば艦船の疎開である。
 1945(昭和20)年4月27日午前10時、戦艦日向の信号兵だった大皿俊治さん(85)は最後の出港ラッパを鳴らした。江田島を回り、情島に投錨したときには、わずかに残っていた重油のほとんどを使っていた。
 大皿さんは兵庫県明石市の自宅の居間で当時を振り返り、大きなため息をついた。「シンガポール戦線から呉に戻ってきたとき、沖縄に向かう大和に日向の重油の大半を積み込みました。内地の重油タンクはそれほど底をついていたのです。もはやだめだと思いましたが、そんなことをおくびにもだすわけにはいきません」
 本土決戦が叫ばれていた。疎開した軍艦は海上砲台として使うことになり、「特殊警備艦」の名称が与えられた。このため船体に迷彩塗装をしたり、甲板上に台地をつくって木を植え、島と一体化させようと試みる戦艦もみられた。幼稚で、哀しいまでの擬装であった。
 全長220㍍、幅30㍍の日向には2800人が乗り込んだこともあったが、このときは半数足らずになっていた。それも補充された国民兵や若年兵が目立った。
 「彼らは失敗を繰り返すので、下士官の罰直の対象になり、毎晩のように甲板整列が行われて、怒号と罵声が聞こえたものです」
 7月1日の無差別空爆では、呉の街が焼かれていく様子を艦上から見やっては、無念をかみしめたという。
 大皿さんが戦闘ラッパを握り締めたのは7月24日の午前7時だった。米空母から飛び立った約40機が、投錨中の日向に機首を向けてきたのだ。
「打ち方始め」。艦長が大声を発した。大皿さんは戦闘艦橋の大支柱に取り付けた拡声器に向かって、ラッパを吹鳴した。しかし戦闘にならなかった。直撃弾を浴びて艦は揺れ、さらに至近弾を受ける。水柱と爆煙。鉄板に機銃弾が撃ち込まれ、攻撃は波状的に続いた。全身黒こげになって死んだ艦長、鉄の扉にたたきつけられて立ったままの姿で亡くなった機銃分隊長、抱きつくように銃床にのめり込んでいた機銃員、血だまりのなかでうめきながら死に絶える者、海上に吹き飛ばされた者……。
 戦死者は約200人にのぼった。信号兵は大皿さんを入れて数名だけになっていた。「爆撃の恐怖があまりに大きかったので、敵機が接近してくるたびに、身を守ろうと物陰に隠れるだけでした」
 その夜、ギギッという音を立てて艦が傾きだした。それは日向の泣き声のようでもあった。大皿さんの肩からラッパが消えていた。絶対に手放すことのないラッパだから、弾よけになってくれたと思っている。
 この日、呉軍港では伊勢、榛名、利根、青葉、大淀などの艦船が日向と同じ運命をたどった。大勢の市民も巻き添えに遭った。

    ■  ■

 その話を聞いたとき、私の脳裏にある光景が浮かんだ。
 ――呉湾に浮上した潜水艦の甲板に、一人の男が真正面を見すえて、直立不動で立っている。顔は定かでない。黒っぽい服装。頭にはきりっと白い鉢巻き。潜水艦は菊水の旗を立てて、静かに呉の軍港を後にした。
 1945(昭和20)年の春のことである。
 この時、福本和正さん(79)は呉第二中学の4年で、16歳だった。山口県岩国市の自宅で、こう回想する。「マルロクと呼んでいた人間魚雷回天を積んだ潜水艦で、若い男は特攻隊員でした。あの姿だけは、いまだに忘れることができません。潜水艦は帰ってきたでしょうが、特攻隊員とマルロクは戻らなかったはずです」
 このあと福本さんは苦しそうに口を開いた。「実はマルロクを造っていました。日本人も米国人も死ぬ兵器を造っていたことに忸怩たるものがあって、長く口に出せませんでしたが、日本軍はこんな兵器まで造っていた――その事実を語り伝えるべきだと決めて、今はマルロクの話をしています」
 福本さんは学徒動員により、呉海軍工廠の水雷部に駆り出された。当初は九三式魚雷といって直径1㍍の大型魚雷の製造に従事した。戦局が厳しくなると、九三式魚雷を改造してマルロクすなわち人間魚雷回天を造るようになる。ただし、福本さんたち学徒は部品の一部を仕上げるのみで、回天は別の工場で組み立てられた。だから完成品を見る機会はなかった。
 人間魚雷という死の兵器の部品を、16歳の学徒は、いかなる思いで造っていたのか。私の問いに、福本さんは即答した。「20歳になるまでに死ぬ、軍港の街だった呉はそんな雰囲気でした。軍国少年の私は、いやいやながら回天を造っていたわけではなく、いずれ自分も乗るだろうと思っていました」。軍都はもとより日本列島に軍国教育が浸透していたのである。
 その年の6月22日に大空襲があり、162機のB29爆撃機により合計1289発(796㌧)もの爆弾が呉海軍工廠に投下された。福本さんはこう語る。「近くの製鋼部の製品置き場に逃げ込んだのですが、至近弾が落下してくるとザザァーという音が響き、ものすごい爆発音と風圧で体が飛び上がりました。この空襲で女子挺身隊員の大勢の若い女性が亡くなっています」
 福本さんが被っていた鉄兜にはクギでえぐったような傷ができていた。爆弾の破片が当たったとみられ、まさに九死に一生を得た。その後1年ほどは米軍機に追いかけられる夢を見てうなされたという。
 「戦争は、なんと恐ろしい、野蛮なものかと実感しました」そう断じて、福本さんは続けた。「マッカーサーが戦争の原因として財閥解体の声明を出したとき、戦争は軍隊がやるものとばかりに思っていた私には、大きな衝撃でした」
 終戦から5年後に朝鮮戦争が起きたとき、福本さんは平和運動の先頭に立っていた。

    ■  ■

 光の雨。12歳の少女の目にはそう映った。火の帯と形容した人もいる。その正体は、米軍のB29爆撃機が投下した油脂焼夷弾だった
〈呉の街に光の雨が降り出した……〉。軍都を一望できる高台の自宅で、少女は目をみはった。1945(昭和20)年7月1日深夜から2日にかけてのことである。
 油脂焼夷弾は尾部に長いリボンをつけたのが特徴だった。住宅地に垂直に落ちるように、いわば尾翼代わりの役目をリボンに負わせている。
 無差別攻撃の象徴ともいえる、おびただしい数のリボンが、燃えながら呉の街に落ちていった。灯火管制で暗かった街がみるみる明るくなり、街が燃える音が山の上のまで聞こえてきた。山のあちこちから高射砲を撃つ音も耳に入る。だが弾はB29にまで届かず、空中爆発した破片が屋根に当たる音が空しく響いた。
 12歳の夏に呉空襲に遭遇した斉藤久仁子さん(75)は、当時を思い出して語るのだった。「光の雨がやんで、長い夜が明けたとき、焦げたみたいな臭気が空気に漂っていました。数日後に山を下りて、焼け野原の呉の街に出ると、それは死臭がきつかったし、溶けたアスファルトがクツの底にくっついて歩けませんでした」
 この空襲で約2000人が亡くなった。斉藤さんのクラスの1人は防空壕で死んだ。横穴式防空壕では550人が煙と熱気で蒸し焼きになって息絶えた。仲の良かった同級生の冨士子さんは、かろうじて助かった。
「彼女から聞いたのは――」斉藤さんは、絞り出すように続けた。「防空壕は大勢の人で詰まり、熱風も入ってきて、息をするのも苦しい。冨士子さんは足元の冷たい土を掘り、それをハンカチに包んで、何度も口に当てたそうです。でも意識は薄れる。生きとるものは声を出せ、手でも足でも動かせ、と警防団のおじさんが叫ぶ声を聞いて、おじさんのゲートルの足をつかんだら外へ出してくれた。そうして冨士子さんは助かったのですが、彼女のお母さんは3月19日の空襲で亡くなっています」
 斉藤さんの家族は犠牲者を出さずにすんだが、父親の重雄さんは入市被爆した。当時40歳だった重雄さんは、広島に原爆が落とされた翌日の8月7日から海軍のトラックに乗って遺体の収容作業に出かけた。
 その後、重雄さんは微熱が続いた。親戚の内科医は「こんな病気をみたことがない」と首をひねった。二次被爆による原爆症だとわかるのは後のことである。
 今も呉市に住む斉藤さんは、重い口調で言った。「父は漁師さんの使う網を川に投げて遺体を引き上げたそうです。細いはずの女性の腕が太ももより太くなっていた――父はそう言っただけで、毎日見たであろう惨状については、生涯にわたって話すことはなかったです」
 斉藤さんは胸の前で両手を組んだ。「あの時代は、死なないこと、殺されないこと、逃げ回ることが、12歳の私の生きていく目的でした」

    ■  ■

 広島県呉市は、すり鉢状の斜面に民家がびっしりとへばりついた街、そう形容できるだろう。すり鉢の底は呉港に面している。
 ある日の午後、私は「呉戦災を記録する会」代表の朝倉邦夫さん(72)と並んで中腹の空き地から、海上自衛隊呉基地に浮かぶ護衛艦や潜水艦を眺望した。かつての軍港とはまったく異なるのだろうが、私は当時のよすがを求めて想像をのばしていた。
「呉を襲撃したB29など米軍爆撃機の数は東京、大阪空襲についで3番目で、投下された爆弾の量は全国で5番目です。これだけの攻撃を受けたのは、呉が軍港都市であり、しかも出撃基地だったからにほかなりません」
 そう話す朝倉さんだが、高校の教師時代、地域史を教えようにも、軍港都市のため呉戦災の資料が少ないことを思い知らされた。軍関係の被害はベールに包まれていた。戦後30年を機に、有志を募って「記録する会」を結成した。貴重な資料を発掘し、保存に努めている。
 朝倉さんは言った。「沖縄を除いて、日本の本土で米軍と激しい戦闘をした唯一の場所が、ここ呉でした。戦争になれば軍事基地と兵器製造所が狙い打ちされるのです。軍都では民間人が巻き添えにされる悲劇が必ず起きる。呉はそのことを教えています」
 戦後、呉は旧海軍施設の平和産業への転換を目指す。しかし呉港から艦船が消えることはなかった。1950年に朝鮮戦争が勃発するや、連合国軍総司令部(GHQ)が対日政策を変えたからだ。54年に防衛庁が設置され、呉に海上自衛隊呉地方隊と呉地方総監部が発足する。
「海軍が解体されても、呉の掃海艦艇だけは残りました」朝倉さんは、きょとんとしたであろう私を見て、こう続けた。「米軍が投下した機雷の除去に当たったからです。このあと朝鮮戦争では、GHQの命を受けて朝鮮半島に出て行って掃海作業を担います。呉で培った掃海技術は抜きんでているようで、自衛隊になってから湾岸戦争時にペルシャ湾に派遣されました。以後、紛争地へ補給艦や輸送艦が、イラク戦争では護衛艦も派遣され、今や呉は海外派遣の中核基地でしょう」
 すり鉢の底に下りて、呉の街を歩けば、「海軍」の文字によく出会う。ある観光ガイドブックには「海軍スポット」や「海軍ゆかりのグルメ」が紹介されている。呉海軍工廠で建造された戦艦大和にまつわる「大和ミュージアム」が05年に開館し、その隣には海上自衛隊呉資料館「てつのくじら館」もオープンしている。
 朝倉さんは人気のスポットに目を向けた。「大和などの兵器の生産に巨大な費用と人材を注ぎ、国民は苦難を強いられました。欧米から学んだ技術や生産方式を改良して完成した大和ですが、米艦のそれには及ばない点もあります。良い点だけを誇示しないで、世界と長短を比較し、すべてを広い視野で見て考えるべきでしょう」
 呉戦災の歴史を知る、朝倉さんの瞳は、心なしか悲壮的だった。(この項おわり。08年7月の毎日新聞大阪本社管内版に連載)

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2009.04.19

◎平和をたずねて⑤ 続ビキニ事件

◎平和をたずねて⑤ 続ビキニ事件 政治の影絵

 ■政府の姿浮き彫り■

「侵略とは何も強力な軍隊に依り侵されるだけではない。姿なき武器、水爆放射に依る空中の汚染も大きな侵略と考えられる」
 静岡県・焼津市歴史民族資料館の一角に常設している「第五福竜丸コーナー」に掲げられた一文である。ビキニ事件(1954年3月1日)に遭遇した第五福竜丸の元無線長、久保山愛吉さんが病床で書いた手記だという。この後に続く言葉に、私は目を奪われた。
「こんなことを書けば思想が何だかんだと申しましょうが、既に事件直後調べたそうですから私の思想はおわかりの事と思います」
 第五福竜丸の23人の乗組員は思想まで調べられたというのだ。そこに何があったのか。それはビキニ事件から半世紀を経て明らかになる。広島市立大広島平和研究所助教の高橋博子さん(39)が、米国立公文書館所蔵の機密解除された公文書の山のなかから暴き出した。
「米ソの軍拡競争が激しくなっていたので、米原子力委員会はCIAに第五福竜丸のスパイ調査を依頼したのです。その報告文書を見つけたとき、被害者を生み出した側がそのような視点で乗組員の思想信条まで調べていたのかと驚きました」高橋さんはつけ加える。「ここまで露骨な調査に協力しながら、日本の外務省はその事実を否定しています」
 このとき私の脳裏を、沖縄返還協定をめぐる密約事件がよぎった。密約を裏づける公文書が米国で見つかりながら、密約の存在を否定し続ける政府答弁と重なる。国民を欺くのは、政府の体質であろうか。
 ビキニ事件では、日米の裏工作ともいえる実態が高橋さんの分析で、いっそう見えてくる。
 その年の9月に久保山愛吉さんが40年の生涯を閉じると、日米両政府は原水爆禁止運動が高まるのを警戒し、早期解決を目指す。米国が見舞金を二○○万ドル(当時の日本円で7億2000万円)支払うことで合意した。政府は水産業界などの損害は約25億円になると見積もったが、三分の一の金額に抑えられた。
 アリソン駐日米大使が当時の重光葵(まもる)外相に宛てた書簡にこうある。「すべての請求に対する完全な解決として、受諾するものと了解します」
 高橋さんは指摘する。「米国は見舞金を支払い、日本政府は受け取ることで、水爆による犠牲者が出た責任を問われることなく放置されてきました。問題のある政治決着です」
 さらに驚くのは、放射能に汚染されたマグロの調査を打ち切ったことだ。公文書は米原子力委員会の関与を裏づけ、同調する日本政府の姿を浮き彫りにした。
 高橋さんは厳しい口調になった。「反対の声を無視して調査を打ち切ったことで、その後にマグロを食した人々を含め潜在的なヒバクシャが大勢生まれました。放射能被災を放置する状況をつくりだしたといえます」
 ビキニ事件は、相も変わらぬ国際政治の力学と非情の国家主義を映し出している。

 ■ヒバクシャ切り捨て■
 自分の名前を書いた人が、なんと3200万人に達した聞くと、今さらながら驚かされる。ビキニ事件(1954年3月)をきっかけに全国にひろがった原水爆禁止運動で、国民の3人に1人が署名したのである。プレスコードの解除で、広島と長崎の被爆の実相が周知されたことがもちろん大きい。自ずと原爆と水爆への反対運動になり、「原水爆」の言葉はすんなりと定着した。
 世論は政府を動かし、第五福竜丸の乗組員の被災を無視できなくなる。それまで国立予防衛生研究所に置いていた「原爆症調査研究協議会」の拡充と強化に乗り出し、「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」に改めて、当時の厚生省に設置された。
 この年の9月に元無線長の久保山愛吉さんが亡くなった。翌月に開かれた第1回総会で、草葉R[隆、圓、りゅう、えん]R・厚生相はこう述べた。「過般のビキニ被災事件の発生に伴い、第五福竜丸乗組員の原爆症とその他の後遺症に関する調査研究を併せ行う必要が生じました」
 また医学部会でも、乗組員の健康不安は懸念された。予後に対する検討がなされ、「若干名には将来非常に長期に健康管理の必要が残るだろう」との指摘があった。つまるところ第五福竜丸の乗組員をヒバクシャと認めていたのだ。しかし政治は国家の都合を優先する。米国が見舞金を出し、受け取った日本政府は完全解決を承諾した。この政治決着によって、ビキニ被災者は切り捨てられた。
 第五福竜丸の他に「死の灰」を浴びた漁船は延べ約1000隻とみられるが、被災乗組員は沈黙を強いられた。いや、ヒバクシャを名乗るダメージを前にして、自ら沈黙を通したというべきか。原水爆禁止運動に参加していた漁業関係者の数も目に見えて減っていった。
 それでも当時の社会党参議員だった山下義信さん(故人)は原爆医療法(1957年4月施行)を論議する過程で、対象者を広島と長崎だけでなく「水爆実験の被災者」まで考えていたようだ。当然、第五福竜丸の乗組員も含まれる。だが、対象を広げることに与党の自民党は難色を示し、それに同調するかのように山下案は消えていく。当時の二大政党の思惑が、歴史のベールの向こうにうかがえる。
 私は京都の龍谷大学法科大学院に田村和之教授(65)を訪ねた。「原爆訴訟を支援する広島県民会議」の代表世話人で、被爆者行政に詳しい。田村さんは山下案について、こう解説した。「当初はビキニ被災者まで含めてひろく救済を求める意思はあったようですが、政府は予算の制約を理由に、戦争による放射線被害者に限定しました。だからビキニ被災者だけでなく、原爆の爆風や熱線による障害者も除外されたのです」
 第1回原水爆禁止世界大会のアピール文には「広島・長崎・ビキニ」の併記が見られる。しかしビキニ事件のヒバクシャに、被爆者健康手帳が交付されることはなかった。

 ■沖縄の悲劇再び■

「ビキニ事件は未解明な部分が多いのですが、なかでも沖縄は深刻でしょう」
 高知県宿毛市の「幡多地域文化ゼミナール館」の一室で、社会科の高校教師だった山下正寿さん(63)は顔を曇らせた。私は聞き耳を立てた。
 高知県南西部の高校生が自主的に平和学習に取り組む「幡多ゼミ」は、ビキニ事件で被災した漁船員の追跡調査を23年前から続けてきた。このゼミを率いるのが山下さんで、顧問団長を務める。
「当時の沖縄は米国の占領下にありました。米国は自らが行った水爆実験について、占領下の沖縄で、どう対処したのか――」山下さんはひと呼吸おいて切り出した。「結論から言えば、沖縄の悲劇を見た思いでした」
 太平洋ビキニ環礁で米国が1954年に行った水爆実験による海洋汚染は黒潮に乗って拡大し、沖縄の近海にまで達した。第五福竜丸が「死の灰」を浴びた3カ月後のことである。このため沖縄近海で獲ったマグロは放射能に汚染され、大阪に入港した漁船だけでも25隻がマグロの廃棄処分を余儀なくされている。
 ところが沖縄では、公式には「放射能マグロ」は1匹も検出されていなかった。幡多ゼミの高校生が沖縄県のマグロ漁船を追跡するなかで突き止めた。この裏づけ調査は、山下さんが副団長を務める高知県ビキニ水爆実験調査団と沖縄県平和委員会の合同で4年前から本格的に始まった。
 その結果、米軍は2隻の遠洋マグロ漁船の検査をしていた。船体と乗組員に異常はなくマグロは再検査する、そう言われたとの証言を元船長から得た。しかし再検査の報告はなく、マグロは市場に水揚げされなかった。マグロの売上金が入らず、元船長の妻は生活に困ったと、山下さんに打ち明けている。
「このマグロは放射能に汚染されていたので、再検査をする前に廃棄処分したと推測されます。その後の検査は異常なしとのことですが、これは米軍に情報操作されたか、米軍よりの見せかけの検査をしたからでしょう」山下さんは厳しい口調で続けた。「放射能に汚染された魚が沖縄の市場に出回った疑いが強いのです」
 すでに54年の歳月が流れた。だが、放射性核種のストロンチウム90の半減期は29年、セシウム137は30年だから、やはり人体への影響が気にかかる。
 ビキニ事件での被災漁船は延べ約1000隻といわれ、第五福竜丸はその1隻にすぎない。「幡多ゼミ」が被災漁船員の追跡を続けるなかで、がんなどにより若くして亡くなった乗組員が目立つという。
 「高知の被災漁船員の話では、船に乗った仲間の葬儀に出るたびに、今度は自分の番かもしれないと非常に不安にさらされています」山下さんは断じた。「沖縄はもちろんそうですが、人間の命を粗末に扱った政治的責任は今も免れません」

 ■第四の平和運動へ■

 ビキニ事件の取材を重ねるにつれ、ため息をつく回数が増えた。出口のない暗闇をさまよい歩いているようで、閉塞感は否めない。第五福竜丸の被災から54年を迎えた今年のビキニデーもそうであった。
 好天に恵まれた3月1日、静岡県焼津市の弘徳院で「墓前祭」が午前と午後にわかれて行われた。いずれも同じ趣旨の平和行事だ。広島と長崎に次ぐ第三の核犠牲者となった第五福竜丸の元無線長、久保山愛吉さんの墓前で反核平和の決意を誓うのである。
 原水爆禁止運動はもともと党派を超えて、国民運動の感が強かった。しかし東西対立の世界情勢のなかでイデオロギー色が強くなり、共産党系の原水爆禁止日本協議会(原水協)と旧社会党・総評系の原水爆禁止国民会議(原水禁)に分裂した。この分裂はビキニデーに限らず、「原爆の日」の平和行動もそうである。
 核兵器のない世界を――のスローガンを互いに掲げながら、その力を統一できないのは平和運動にとって何より不幸であろう。だから、多くの焼津市民は「運動」に政党アレルギーを抱いて離れた。ついには焼津市が乗り出して、1985年から反核平和行事「6・30市民集会」を主催するようになった。「3・1」を避けたとはいえ、6月30日は見舞金により政治決着した日なので、この市民集会へ反発する声も小さくない。
 こうした不幸な事態を少しでも打破できないものか。私は両団体の事務局を訪れて統一行動の可能性を問うたが、長年の亀裂は深く、残念ながら実現の可能性は低いと結論するに至った。
 その足で、焼津市内の静岡福祉大学に向かった。学長の加藤一夫さん(66)は01年から04年にかけて「やいづ平和学」の市民講座を開講した教授で知られる。第五福竜丸の乗組員や郷土史家、教師らがこぞって顔を見せ、意欲と熱気にあふれた公開講座となった。こうした市民レベルの場を待っていたのかもしれない。
 2年後には、熱心な受講生らが中心になり「ビキニ市民ネット焼津」が誕生する。加藤さんは力説した。「政治対決型の運動はやりません。この町が平和運動の発祥の地であることを確認して、町おこしに寄与する、いわば第四の平和運動を目指しています」
 東京から焼津に来て16年が過ぎた。少なくとも加藤さんの周囲では、ビキニ事件を意識的に避ける雰囲気が和らいできたという。
「少しずつ状況は変わっています」。加藤さんは声を弾ませた。「シンボルとなる第五福竜丸が焼津にないので、新しいシンボルを造ろうという機運も盛り上がってきました。水爆実験のなかで生まれた日本産のモンスターであるゴジラを、焼津の反核平和シンボルにできないかと議論し合っているところです」
 東京の第五福竜丸展示館に対して、焼津の「ゴジラ平和館」というわけだ。焼津からニューウエーブが生まれ始めているようである。

 ■科学者の良心■

この人だけは書き留めておきたい、そう痛切に思った科学者がいる。気象庁気象研究所地球化学研究部長、東京教育大(現在の筑波大)教授を務めた三宅泰雄さん(1908~1990)だ。政治のベールに包まれた第五福竜丸の向こうに毅然(きぜん)として立つ三宅さんの像を、私は幾度となく見てきた。

 ビキニ事件で、いち早く水爆禁止要求の声明を出したのが日本気象学会だった。各国政府と科学者に水爆実験の及ぼす気象学上の影響を調査し、その結果を公表するように訴えたうえで、水爆など大量破壊兵器の禁止を求めた。1954年5月20日の総会で採択された。ビキニ事件の2カ月後のことで、わが国の学会としては初めてだった。このとき尽力したのが三宅さんである。

 その5日前には、政府の海洋調査船「俊鶻(しゅんこつ)丸」がビキニ事件の現場へと向かっている。気象班は三宅さんが責任者として仕切った。

 「死の灰」を浴びたのが第五福竜丸だけではなく、ビキニ環礁から遠い海域で操業していた漁船も放射能に汚染されているとわかると、三宅さんは警告を発した。

 「水爆による放射能灰は大気中の広範囲にわたっており、放射能雨が心配されます」

 各地の大学や研究所で放射能雨の測定が始まった。諸外国でも公表された論文は少なく、日本の科学者による独自の調査といえた。三宅さんが案じたように5月中旬を境に太平洋沿岸に強い放射能雨が降り出した。ビキニ環礁の水爆実験の影響とみられた。

 ところが9月下旬になって、日本海側でも強い放射能雨が観測される。三宅さんはこれはソ連の核実験によるものだと推断した。ソ連は水爆実験を行ったことを認めたものの、日本に影響を与えるものではないと、モスクワ放送を通じて反論してきた。折しも東西冷戦のただなかで、反米に対する親ソの立場から、ソ連の核実験を認める科学者たちがおり、三宅さんは彼らの攻撃にあった。しかし、自説を曲げる人ではない。55年1月24日付の毎日新聞にこう書くのだ。

 「ソ連製の雨だろうといったため、ある人々のごきげんを損ね、大分、悪口をいわれたようである。しかし、日本人の立場からいえば、製造元はどこでも、とにかく、頭の上から放射能の灰や雨が降ってくるのは困るのである。(略)原水爆禁止の平和運動は、元来、人類史的な意義をもつものであった。鉄のカーテンでへだてられた両陣営のいずれかに加担すべきでないことはいうまでもなかろう」

 第五福竜丸の保存運動に力を注ぎ、当時の美濃部亮吉・東京都知事とひざ詰めの談判をしたのも三宅さんならではだろう。都立第五福竜丸展示館を誕生させた保存運動から、今年で40年を迎えた。保存から展示館の運営まで担った三宅泰雄さんの言葉を最後に記したい。

 「第五福竜丸は過去の歴史というより、むしろ未来の人類の命運を啓示している」
(この項おわり。2008年5月の毎日新聞に掲載)

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2009.01.13

平和をたずねて⑤

◎平和をたずねて⑤
◎ビキニ事件 核放射線の大罪

  ■声なき遺言 命に換え■
 その石碑は寒風のなかに、ぽつりと建っていた。しかし、碑文の言葉は重い。「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい 久保山愛吉」。広島、長崎に次ぐ第三の核犠牲者、久保山さんの遺言として知られている。
 いわゆるビキニ事件は、1954年3月1日未明に起きた。米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で、静岡県・焼津漁港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」は大量の放射性降下物つまり「死の灰」を浴びた。23人の乗組員のなかで最年長の無線長、久保山愛吉さん(当時40歳)は急性放射能症との闘いの果て、半年後に死亡した。久保山さんの遺言は、多くの著作や発言に引用されてきた。そして碑文となった今、都立第五福竜丸展示館(東京都江東区・夢の島公園内)のそばにある。
 だが、久保山さんはそう言い残して亡くなったのではないという。6人部屋の同じ病室にいた元冷凍士の大石又七さん(73)は、都内の自宅で、こう振り返る。「亡くなる1カ月前は言葉を話せるような状況にはなく、筆舌に尽くしかねる最期でした」
「死の灰」は時間とともにキバをむいてくる。6週間後に白血球が減って、体を動かすのもつらくなりベッドに横たわっていた、と大石さんは体験を語る。体内で何か異変が起きているとわかり、不安は増すばかりだった。当初は久保山さんのほうが元気で、若い乗組員を励ましていた。しかし放射線は、久保山さんの臓器を容赦なく壊していく。突然、背中に高圧線が走っている、焼かれる、と大声で叫び出し、苦しみ、もがき、ついにはベッドに結わえられたそうである。総力をあげた治療も、久保山さんには及ばなかった。
 治療団長の立場にあった都築正男・東大医学部名誉教授(故人)は、その年の「中央公論」に寄稿して、久保山さんの解剖検査についてこう書く。「肝臓、腎臓、脾臓、膵臓、心臓、肺臓、骨髄、リンパ腺等、生活に必要ないろいろな内臓が、その程度こそ違え、いろいろの状態に侵されていることが判った。こういう状態でよくも今日まで生き永らえていたものだと驚くくらいの変化を示している内臓もあった」
 久保山さんが逝ってから、病室の乗組員はみな押し黙った。ベッドにもぐり込んでいる時間が長くなった。次は俺の番かもしれない、あんなに苦しんで死にたくない……。恐ろしいほどの沈黙が続いた。自殺を恐れた看護士さんがトイレまでついてきたそうだ。その当時を思い出して、大石さんは虚空をにらんだ。目頭をうるませた。「悲しみと怒りと恐怖がないまぜになって、死の覚悟を迫られる苦しい日々でした」
 放射線は人間の尊厳を奪って死に追いやる。こんな死に方をさせていいのか――そう訴えても、憤っても、祈っても、放射線は無情だった。碑文の言葉は、久保山愛吉さんが命と引き換えに全身で訴えた、声なき遺言であろう。これは人類への遺言である。

  ■「俺たちはヒバクシャ」■
 「黒い重荷でした」
 米国の水爆実験で被災したマグロ漁船「第五福竜丸」の元冷凍士、大石又七さん(74)はそう言った。40年間隠し続けてきた秘密だから、どんなに重くとも墓場まで背負って行くつもりだった。しかし公の場で、腹の底から引っ張り出すようにして、やむにやまれず声に出した。2000年5月25日のことである。
 この日、当時の厚生省社会保険審査会で、元甲板員の小塚博さん(75)が請求した「船員保険の再適用」について公開審理が行われた。大量の輸血治療で乗組員のほとんどがC型肝炎ウイルスに感染しており、小塚さんも苦しんでいた。静岡県からは、ビキニ事件の治療後に退院して働いているので「社会通念上の治癒に当たる」として治療給付を退けられた。このため国に直接申請をしたのだ。容体の重い小塚さんの代理として、大石さんが陳述することになった。
 審査委員長は、他の乗組員から申請が出ていないのはなぜか、と問うてきた。何も分かっていない、と大石さんは怒りに震えた。「発病した仲間も、死んでいった仲間も、みんな死の灰を浴びたからだと思っています。圧力や偏見を恐れて言い出せなかっただけです」。
 ついに大石さんは、約30人を前に、口火を切った。「昭和35年、私の最初の子どもは死産で生まれました。家族にも、みんなにも、ただの死産と言ってきましたが、本当はいちばん恐れていた奇形児だったのです」
 心の中で、お母ちゃん、我慢してくれ、と両手を合わせて、さらに続けるのだった。「そのことだけは言えませんでした。言えば同僚も他人事でなくなり、大騒ぎになると思ったからです。私の家系ではそのような子は、これまで産まれておりませんので、どうしても納得できません。ビキニ事件でヒバクシャになったからだとしか考えられません」
 その2ヵ月後、小塚さんの病床からの願いはかなった。発病とビキニ事件との関係が認められたのだから、画期的ではある。だが、大石さんは満足していない。肝臓がんで89年12月に亡くなった元操機手の高木兼重さん(当時66歳)が息を引き取る間際まで、こう言っていたからだ。「俺たちはヒバクシャなのに、なぜ被爆者健康手帳がもらえないんだ」
 大石さんも、93年秋に肝臓がんが見つかり摘出手術を受けている。「きやがったな、そんな気持ちでした」。さらに語気を強めた。「水爆にやられたのに、国が認めたのはC型肝炎ウイルスによる内臓疾患のみですから、やはりおかしいですよ」。
 大石さんは東京都内でクリーニング店を営みながら、年間にしてざっと40回の講演をこなす。第五福竜丸を語り、核放射能の大罪を訴える。「悔しさがエネルギー源でしょうね。死んでいった仲間の無念も晴らしたい」。その講演会場で、必ずこう言う。「ビキニ事件は、まだ終わっていません」

  ■内部被曝の脅威■
「ブラボー」はないだろうと思うが、ビキニ環礁での水爆実験をアメリカはそう呼んだ。広島原爆の1000倍といわれる核爆発は、サンゴ礁を粉々に砕いては空高く舞い上げた。放射能を帯びた白い灰となり、激しく降り注いだ。
「第五福竜丸」の乗組員は6時間にわたって、みぞれのような「死の灰」を浴びた。乗組員に、その正体はわからず、顔に付着したものを口に入れてみた。ジャリジャリとして固かった。母港の焼津に帰る途中で、頭髪が抜けたり、吐き気をもよおす者が現れた。歯ぐきからの出血もあった。皮膚には、やけどの症状も見られる。こうして14日間、乗組員は「死の灰」とともにあった。
 私は静岡県浜松市に聞間元医師(63)を訪ねた。放射線が人体に与える影響を聞きたかったからだ。原爆症認定集団訴訟の原告側証人として裁判所で証言したり、第五福竜丸の乗組員の健康実態調査をしてきた医師として知られる。ビキニ事件のマーシャル諸島や旧ソ連の核実験場だったセミパラチンスクを訪問調査してもいる。
 聞間さんは言った。「ヒバクシャは過去の問題ではなく、むしろ今後だと思います。というのは追跡調査で、がんの影響など全容の一部が分かり始めたからです」
 広島や長崎や核実験によるヒバクシャが死して残したカルテ、そして今なお病魔と闘っている人々の症状が貴重なデータとなりつつあるという。「負の遺産なのですが――」と前置きして、聞間さんは強調するのだった。「これらのデータを人類のための世界遺産にして、核兵器の廃絶と核実験の中止を真剣に考えてほしい」
 私は聞間さんの丁寧な解説に耳を傾けた。
――広島と長崎では大勢の市民が初期放射線に突き刺され、直後の「黒い雨」による放射性降下物を浴びた。これを外部被ばくと呼ぶ。微量の放射性物質を空気といっしょに吸い込んだり、食べ物を通して飲み込んだのが内部被ばくである。いずれにせよ、体内に入った放射線は組織細胞を傷つける。強い線量だと臓器を破壊して死に追いやる。傷つけられた細胞は再生する際に、傷のあるコピーをつくっていくので、がん化されやすいという。いや、がんだけでなく、心筋梗塞や白内障など種々の病気との関連も否定できなくなってきた。放射線による被ばくは生涯にわたってヒバクシャを苦しめるのだ。それは二世や三世の不安にもつながる。
「第五福竜丸」の23人の乗組員のうち12人が亡くなっている。聞間さんによると、多くは肝臓がんや肝硬変による死亡だった。急性放射能症の治療で輸血した際に、C型肝炎に感染した影響が大きいとみられる。聞間さんはこう指摘する。「乗組員は内部被ばくで免疫異常や細胞障害をきたしていたため、感染しやすかった可能性が強いのです」
 放射能は二重、三重の悲劇をもたらす。核被害は無限ではないか――。内部被ばくの脅威を聞いた私は、そう思わずにはいられなかった。

  ■2人の母に注いだ涙■ 
 庭先の白い円形テーブルを挟んで、私は「第五福竜丸」の元漁労長と向かい合っていた。焼津漁港から潮風が流れてくる午後だった。
 遠洋漁船の責任者は船長ではなく、船頭とも呼ばれる漁労長である。ビキニ事件当時の漁労長、見崎吉男さん(83)はぽつりと言った。「どうしようもなく涙があふれ出て、とまらなかった葬儀が2度あります」
 それは長い間、多くを語らずにきた、見崎さんが亡き2人の女性に自身の人生を重ねた涙であった。
 母親のかねさんは、長男をレイテ海戦で亡くした。二男は病死。末っ子の見崎さんが残った。終戦時から引き揚げ船や運搬船に乗り、28歳の若さで「第五福竜丸」の漁労長となる。この息子が、かねさんの自慢だった。
「航海から帰った元気な私を見るのを、母は楽しみにしており、それが活力の源でした」。そこへ、「死の灰」を被って帰港する。放射能を浴びた漁船とマグロを焼津に持ち帰った責任者――。見崎さんは核被害者でありながら、汚名を着せられた心境だったろう。
「重大な社会問題を背負った人間になり、念の入った親不孝者です」。遠い日の無念を思い、かねさんを語るのだった。「母は、息子が心配をかけました、申し訳ないです、と頭を下げて回ったそうです。忍耐と受け身とおわびの人生の始まりです。その一方で私の体が回復するのを祈り続けていました」
 2年後の秋、かねさんは死んだ。見崎さんは遺体にすがりついて号泣した。かねさんの顔は、息子の流した涙でぐしゃぐしゃになった。「心配をかけた、苦労をかけた」。83歳の見崎さんは、独り言のようにつぶやいた。
 もう1人の女性、久保山すずさんは無線長だった夫の愛吉さんを急性放射能症で亡くした。9歳、7歳、4歳の女の子が残された。子どもを育てながら、すずさんは原水爆禁止運動に駆り出された。何かと相談に乗っていた見崎さんは振り返る。「亡き夫をしのびながら、そっと暮らしたいタイプの女性でしたから、人前に出て話すのはつらくて、家に帰ると泣いていたそうです」
 すずさんは、ある女性からの手紙を手放さずに持っていたという。反核運動の広がりを懸念した米国がビキニ事件の政治決着を急いで、見舞金を乗組員に出したときのことである。〈私たちは戦争未亡人。子どもを抱え食うや食わずの生活をしている。あなただけが大金を貰うなんて不公平、私らにもわけてほしい。いやなら、私たちはあなたの家の軒下で死にます〉
 この見舞金はR[羨、望、せん、ぼう]RとR[嫉、妬、しっ、と]Rを生んだ。すずさんは、お金はいらないから夫を返してほしいと胸のうちで叫んだことだろう。かくして93年秋、72年の生涯を閉じた。
「すずさんの葬儀では、静かに静かに、とめどもなく涙が出ました」。見崎さんは声を詰まらせた。「母とすずさんは、大事な後半の人生、終わりよければすべて良しが無かったんです」
 核放射線は、なんと罪深いのか。

  ■予想超えた汚染度■
 ビキニ事件で被災したマグロ漁船「第五福竜丸」とは別に脳裏から消えない船がある。政府の海洋調査船「R[俊、鶻、しゅん、こつ]R丸」(588㌧)だ。第五福竜丸が「死の灰」を浴びて帰港した2ヵ月後、アメリカが行った水爆実験の現場へと向かう。1954年5月15日のことで、あわただしい出航だったに違いない。
 この時、水産業界は「放射能マグロ」に始まったパニックの痛手にあえいでいた。米国に損害賠償を求める声が高まる一方で、当の米原子力委員会は水爆実験による海水汚染を認めていなかった。そこで、実地調査をしてみようと政府が腰を上げたのだ。現在の政府だったらここまで踏み切れまいと思うが、おそらくは広大な太平洋が放射能に汚染されているわけがないと、米国と同様にたかをくくっていたのではなかろうか。
 それはともかく、俊鶻丸には22人の科学者が乗り込み、魚類などの生物から環境衛生、気象関係など専門分野ごとの調査に当たった。
 当時の科学研究所(現在の理化学研究所)に勤務していた岡野眞治さん(81)は放射線計測学が専門で、環境衛生班に加わった。日本に1台しかなかった手作りの放射線測定器を持ち込んだ岡野さんは、衝撃の発見をこう振り返る。「はえ縄漁でとったカジキやマグロの内臓から、天然に存在しない亜鉛65が見つかったときは、まさかとわが目を疑うほど驚きました。誰一人として想像していなかったことですから」
 そもそも亜鉛65とは――。現在、財団法人・放射線影響協会の研究参与を務める岡野さんによると、天然の亜鉛の中に約5割を占める亜鉛64に中性子が当たってできるのが亜鉛65だという。爆弾や周辺の材料に含まれる亜鉛が放射化して灰やR[塵、ちり]Rとなり、それが海水からプランクトンそして魚へと濃縮されていった。核分裂による生成物ではないが、魚の内臓に濃縮された亜鉛65は強い放射能を放っていた。濃縮率が大きかったのである。
 岡野さんは淡々と話すのだった。「ブラボー爆弾の威力がとてつもないものだったということです。ビキニ環礁から1000㌔も2000㌔も離れた海域の海水やプランクトンからも放射能が検出されました」
 この放射能魚に関するデータを見せられた米原子力委員会は、とても信じる気になれなかったようだ。しかし誠実な科学者も多く、「日本に一本とられた」と岡野さんたちの放射化分析の成果を認めた。アメリカ原子力委員会は翌年になってビキニ海域調査を実施した。俊鶻丸の調査を妥当と認めるだけであった。
 岡野さんは鎌倉市内の自宅近くを歩きながら、昨日のことのようにため息をついた。「ブラボー爆弾の放射能汚染度は予想外でした」
 事実、海洋汚染だけでなく、日本各地で強い放射能雨が降り注いだ。太平洋ビキニ環礁での水爆実験は人類と地球に対する犯罪であった。それはまぎれもなかろう。(この項おわり。2008年2月の毎日新聞に掲載)

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2008.09.14

平和を訪ねて④原爆の図――終わらない旅

◎平和をたずねて④
◎原爆の図 終わらない旅

■ 情念が喚起する絵 ■
 世界23ヵ国、延べ数百万人の目を奪ったといわれる「原爆の図」は圧倒的な迫力を放って、見る者の前に存在し続けてきた。埼玉県東松山市にある「原爆の図丸木美術館」での私の体験は――後頭部に一撃くらったような衝撃、いや五感を揺さぶられた、違う、もっとストレートで、心をわしづかみにされた、そのような実感であった。
「原爆の図」は縦1・8㍍、横7・2㍍の巨大な屏風画で、第1部「幽霊」から第15部「長崎」まである。丸木位里さん(1901~95年)と俊さん(1912~00年)夫妻が1948年から34年がかりで仕上げた。水墨と日本画の顔料を使い、原爆の原罪と戦争の絶望を描いている。
 秋のある日、平和学習で美術館を訪れた東京都内の女子中学生の集団が「幽霊」の前で、学芸員の岡村幸宣さん(33)の説明に耳を傾けていた。
「みんな赤むけになり、幽霊のような姿になっていますが、原爆が落とされる寸前まで普段と変わらない日常を過ごしていた人たちです。それぞれの人々がもつ物語を丸木夫妻は描いたのです」
 広島出身の位里さんは原爆で父親と伯父それに2人の姪を亡くした。その3日後には埼玉県から帰郷し、遅れて俊さんも広島入りする。陰惨な光景に目を覆い、生き残った母スマさんらから一瞬時の様子を聞いた。スマさんが口にした「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」の一言は色あせることなく、今も胸に突き刺さる。
 1950年2月に東京都美術館で発表したときのタイトルは「8月6日」だった。GHQ(連合国軍総司令部)の検閲を逃れるために原爆の文字を外したという。そんな時代ゆえに「原爆の図」が大反響を巻き起こしたのはいうまでもない。このあと丸木夫妻は第2部「火」と第3部「水」の初期3部作を描き上げる。後に位里さんは語ったものだ。「描きたくて描いたのではない。義務からでもない。ヒロシマを見たから描くのです」
 そして53年6月、日本巡回を終えた三部作が東西ヨーロッパに向けて世界展の旅に出る。岡村さんは言った。「初期の原爆の図は、極端に言えば人間しか描かれていません。原爆を浴びたら人間はどうなるのか、丸木夫妻はそのことに重きをおいたのです」
 そう聞いたとき、「原爆の図」には丸木夫妻の情念が塗りこめられていると思った。見る者をして、その場に棒立ちにさせる、この喚起力は情念ゆえの成果であろう。
「原爆の図」は半世紀を超える巡回展を続け、いまも旅の途上にある。

 ■ 運動史を越えて残る ■
 「原爆の図」の創作現場は激烈な闘争、つまり修羅であった。丸木位里さんが墨を流すと、「弱い!」と妻の俊さんが声を裂いては、その上から線を描き加える。黙って眺めていた位里さんが、今度はバケツで墨をぶちまける。一瞬にして黒い海になり、「何すんの!」と俊さんが怒りに怒る。しかし時間がたって墨が乾くと、その下から俊さんが描いた線がくっきりと浮かび上がる。見事なものだった。
 夫妻の仕事を間近で見ていた美術評論家のヨシダ・ヨシエさん(78)は、こう断じる。「あれは喧伝されている共同制作なんてものではない。互いに想像力をぶつけ合ってケンカしながら描いたんだから、共闘制作だよ」
 そのとき位里さんが49歳、俊さん38歳、ヨシダさんは21歳だった。山小屋のようなアトリエに文学青年のヨシダさんや若い絵描きたちがたむろして、ひたすら描く丸木夫妻を囲んでいた。彼らの前で「原爆の図」の「幽霊」「火」「水」の三部作は完成した。1950年のことである。
 アトリエに出入りしていた若い画家の野々下徹さん(故人)とヨシダさんが、多くの人に見せたいと「原爆の図」を背負って全国行脚に出たのは52年の3月だった。以来、足かけ3年、ヨシダさんは毎日が刺激の連続だったと振り返る。
 絵を背にして解説するヨシダさんに詰めより「この絵は大げさだ」と誰かが言えば、その場にいた被爆者が「そんなことはない、原爆はもっとひどかった」と大声で反論する。たとえば長崎では、聴衆のなかにいた女学生が泣きながら飛び出してきて、上半身裸になった。「みんな、わたしの背中を見て!」。痛々しいほどのケロイド――。ヨシダさんはあわててセーターを脱いで彼女に着せた。「このお兄さんの言っていることが本当なんです」
 何もかもが、昨日のことのようでもある。愛知大学事件(52年5月)の思い出は苦い。展覧会に協力してくれた愛知大生が公務執行妨害で逮捕されたのだが、実は大学構内に立ち入った警官の拳銃を奪うように示唆したのがヨシダさんだった。「あの時は、撃たれかねない状況だったからね」。当のヨシダさんは「原爆の図」を警察に押収されては困ると思い、急いで列車に飛び乗り富山へと向かった。
 このような旅の途中で、「原爆の図」は平和を旗印にした政治的な運動に巻き込まれたこともある。ヨシダさんは強調した。「多くの反戦平和の運動史を越えたところで、絵画として原爆の図は厳然として残った。核の問題には右も左もないからね」
 そうした力を備えた、いわば黙示録としての絵画であるのかもしれない。

 ■ 米の展覧会で覚醒 ■
 そのころのアメリカはベトナム戦争が泥沼化していた。反戦運動が盛んになる一方で「ベトナム戦争勝利のための大行進」が繰り広げられ、「ハノイに原爆を落とせば戦争は解決する」と真顔で主張する者も少なくなかった。
「留学先のアメリカの友人と議論を楽しんでいても、広島と長崎の原爆投下だけは最後まで平行線でした。正当化論を曲げない彼らを分からせるには実物教育あるのみだと思い、なにがなんでも原爆の図を見せてやろうと」
 法政大学名誉教授で大宅賞作家の袖井林二郎さん(75)は当時を思い返して、そう話す。6年間のアメリカ留学から戻り、袖井さんが丸木位里・俊夫妻を訪ねたのは1966年のことだった。アメリカで「原爆の図」の展覧会をしたいと熱意をぶつけるも、丸木夫妻の返答は「難しいでしょうね」に尽きた。それまでに何度か頓挫していたからだ。
 時間はかかった。袖井さんは幸運を待っていたのかもしれない。68年の夏にアメリカ・フレンド奉仕団(クエーカー)の友人が来日、「原爆の図」に感動した。この友人の仲介もあって、2年後に、完成していた8部がニューヨークに渡ることができた。しかし、欧州や中国などへの旅とはちがって、反響は少なかった。
「私の弟はパール・ハーバーで殺された。こんなものを見せる資格が日本にあるのか」。会場で、そう怒鳴る女性もいた。ニューヨーク・タイムズの「反感をもよおさせる」といった酷評に、袖井さんは悔し泣きにくれた。
「あれほど泣いたことはないですよ。青春の客気が体制の一撃をくらったのですからね」袖井さんはつけ加えた。「平均的アメリカ人の本心は、見たくなかったのでしょう」
 カリフォルニア州の会場では、何かと協力してくれた米国人の大学教授が静かな口調で丸木夫妻に尋ねた。「中国人の絵描きが南京大虐殺の絵を日本に持ってきて、展覧会をしてくださいと言われたら、あなた方はどうなさいますか」丸木夫妻が強い衝撃を受けて沈黙していると、教授は重ねた。「私たちはそれと同じことをしているのですよ」
 身の危険を賭してまでも展覧会をしてくれる人がアメリカにこうしている。アメリカを一束にして憎んでいた丸木夫妻の感情が和らいでいくのが、そばにいた袖井さんにはよくわかったという。
 帰国後、丸木夫妻は加害の側面から絵筆を握り、国家と恩讐を越えた「原爆の図」が描き加えられた。袖井さんはぽつりと言った。「展覧会は失敗だったが、丸木夫妻を覚醒させた旅ではありました」。こうして新たな旅は始まったのである。

 ■ 私財で美術館建設 ■ 
「原爆の図丸木美術館」は今年5月に開館40周年を迎えた。埼玉県の中部に広がる比企丘陵の緑豊かな地に、丸木位里・俊さん夫妻が私財を投げ打って丸木美術館を建てたのは1967年のことである。
 このとき「原爆の図」は第10部まで完成されていて、ヨーロッパからアフリカそしてオーストラリアを巡回して日本に帰ったところだった。保存と展示のスペースが必要だと痛感した夫妻は、アトリエと住居を備えた美術館の建設を決断した。
 夫妻亡き後は、美術・文芸評論家として言論界に強い影響を及ぼしてきた針生一郎さん(82)が館長を務めている。針生さんは語るのだった。「日本の戦争責任と戦後責任という回避できない社会的テーマを、70年代以降の美術界は喪失していたが、丸木夫妻だけが一貫して描いてきたのです」
 確かに丸木夫妻の取り組みは、すさまじいの一言につきる。ことにアメリカから帰国後は、針生さんの指摘するように「思想的にも表現的にも深まりと広がりを示す」作品が描かれた。第13部「米兵捕虜の死」は原爆が落とされた直後に起きた米兵虐殺事件を描き、第14部「からす」では見捨てられた朝鮮人被爆者の死に迫る。さらには「原爆の図」を飛び越えて、「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」「水俣の図」と続く。たびたび沖縄を訪れては「沖縄戦の図」を完成させてもいる。
 あるとき位里さんは言った。「民衆がひどい目にあわされることに我慢できなくて、抗議の気持ちをこめて絵筆をとりました」。そのそばで俊さんが続けた。「絵描きは民衆のなかに入って民衆の目でものを見なければなりません。絵の善し悪しは民衆の目に判断してもらえればよいのです」
 針生さんが引き取った。「丸木美術館は創設以来、丸木夫妻が積極的にかかわった市民運動の人々に支えられてきました。こういう美術館は日本にほかになく、この伝統は尊重したい。私はその意思を受け継ぐべく館長を引き受けたのです」
 さっそく始められたのが、芸術家が反戦と向き合う「今日の反戦反核展」だった。銀座のギャラーで長年開催されていた「戦争展」を引き継いだ。反戦に反核を加えたのは今年からだ。針生さんはこう説明する。「今日の戦争を正確にとらえ丸木美術館にふさわしい展示となると、核兵器の問題は避けて通れない。湾岸からアフガン戦争で米軍の使った劣化ウラン弾が民衆に深刻な被害を与えていることは見逃せないでしょう」
 丸木夫妻はその生涯をかけて「原爆の図」を描き、民衆の視線から戦争と対峙してきた。この魂は今も生き続けている。

 ■ 歴史引き継ぐ財産 ■
 それは死にまつわる悲しいことだが、この世から広島と長崎の被爆者がいなくなる日が近い将来やってくる。原爆を歴史に埋没させてはならないとの命題も重くなるだろう。
 私はふと考えることがある。半世紀を超えて多くの人々に見られ、そして語られてきた、この「原爆の図」の普遍性は、被爆者に代わり得る資格を有しているのではないか――。
 そんな思いでいると、「丸木俊、位里のしごとをどう伝えるか」と題した講演会が今秋、早稲田大学教育学部で開催された。「ことばの力を創世する教員養成プログラム」の一環として「記憶を語ることば」の公開講演会を続けており、私は会場で聞き耳を立てた。
 講演したのは美術評論家・早大非常勤講師の小沢節子さん(51)で、丸木美術館の評議員を務めたこともある。小沢さんは「原爆の図」について、こう述べた。「被爆の無数の記憶を絵画のなかに染み込ませ集積して、1950年の同時代の人々に、そして私たち後世の者に原爆を伝えようとした、丸木夫妻はそういう仕事をしたのだと思います」
 私は位里さんの言葉を思い出していた。「人間が人間を殺すことの悲惨さと生の尊さ、平和への祈り、人間愛というものを問うていきたかったのです」
 小沢さんは「アートの言葉」をキーワードにあげた。「原爆が落とされたとき、人々はどうであったのか、その後どのように生きてきたのか、一人一人の人間にとって原爆は何だろうか。そういうことを伝えるのがアートではないでしょうか。見る者、読む者はいろいろと想像して、歴史の記憶に近づき、アートの言葉を受け止めるのです」
 小沢さんによると「原爆の図」には叙情性と大衆性があり、だから「アートの言葉」としてわかりやすいという。「観客の情緒や感傷に訴える、つまり感情移入を呼び起こす叙情性と多くの人の戦争の記憶に働きかける大衆性をあわせもっています」そう説明して、小沢さんは結んだ。「原爆の図は歴史の記憶を引き継ぐ財産だと思います」
 俊さんは言っている。「人間が人間を殺しちゃいけない。絶対に戦争をしてはなりませぬ」
 その俊さんは「ピカドン」「ひろしまのピカ」「おきなわ 島の声」など多数の絵本を残している。小沢さんはこう続けた。「原爆の図にはすべてに説明文があるので、大きな絵本とみることもできます」
 このとき私は、ひざをたたいた。大きな絵本であるならば、子どもたちに見てほしい。被爆者に代わり得るのではないか。小沢さんは穏やかな口調で返した。「原爆の図は被爆者の代わりにはならないでしょうが、戦後史の証言者にはなります」
 これからも長い旅を続けるであろう「原爆の図」は、新たなる出会いを待っているに違いない。
(この項おわり。07年11月の毎日新聞に掲載)

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2008.05.31

平和をたずねて③ 広島のクローバー

平和をたずねて③ 広島のクローバー

■ 生死を分けた3時間 ■ 
 今も昔も、銀座は華やかな色彩にあふれた街である。銀座の響きにはあこがれや夢さえ伴う。戦争の時代、目抜き通りにモダンな洋裁店「クローバー」があった。ドレスメーカーとして働いていた吉田スミさんが夢を託した街を離れて広島の実家に戻る決意を固めたのは、東京大空襲を目の当たりにしたときだった。当時、スミさんは30歳、1945(昭和20)年3月のことである。
「すぐ目の前で、ぼんぼんと火の玉が落ちるんですから――」。92歳になるスミさんは昨日のことのように話す。「それは生きた心地がしませんでした」
 このときスミさんは、2歳の美保子ちゃんをかかえていた。亡き夫が可愛がっていた娘を空襲で死なせてはならない、という気持ちも強かった。
 恋愛結婚した夫の重雄さんは毎日新聞(当時の東京日日新聞)のパイロットだった。特注の「ニッポン号」で世界一周の国際親善を果たし、まさに時代の英雄となっていた。だが新婚生活は短く、重雄さんは陸海軍に嘱託として動員され、双発機で輸送任務中にインドネシアで戦死した。43年12月のことで、享年31歳だった。
「この子がいるから、僕は絶対に死なない」。生後間もない一粒種の美保子ちゃんを抱いて、重雄さんは常々そう言っていた。「ニッポン号」で世界を見てきたので、「この戦争は負ける」と予言してもいた。だが戦争は続けられ、重雄さんは戦没した。
 広島に戻ったスミさんは、決して心穏やかではなかった。「広島はあまりに静かなので、かえって不気味でした」。で、疎開を決断する。実家を継いだ長兄や近くに住む伯父らの反対を振り切って、市内から10里(約40㌔)も離れた山間部に移ることにしたのだ。母や姉らも引き連れていった。
 8月5日の夜、引っ越しのトラックに身の回りの品を乗せてから、スミさんは長兄の家族と夕食を楽しんだ。長兄には6人の子どもがいたが、3人は学童疎開しており、長兄の妻と3人の幼子が食卓についた。しばしの別れを告げ、6日の朝方、スミさんは疎開先の村にたどりついた。
 その3時間後に、原爆が実家の真上から投下された。爆心地だった。長兄の家族は学童疎開していた3人の子ども以外は、夕食を共にした全員が死んだ。伯父も伯母も死んだ。以来、スミさんは「生かされた」と思っている。他に考えられなかった。
 スミさんが広島入りしたのは8月16日で、入市被爆者となった。実家の跡地から小さな骨が見つかり、1歳の博子ちゃんに違いないと聞かされた。スミさんは声を落とした。「ものが言えんかったです」。憎むべきは戦争である。

 ■ 人間が焼ける臭い ■ 
 涼しさをのせて9月の風が吹くようになっても、広島はあちこちで異様な煙が立ち上り続けた。原爆が落とされて1カ月以上たっても、煙はたなびき、初秋の空を焦がした。急性原爆症で死んだ肉親の遺体を焼いては、骨にしていく人たちの胸中やいかばかりだったか。その煙は無情であったろう……。
 原爆が落とされる前夜に、夕食のテーブルを囲んだ長兄らを失った吉田スミさんは、やはり原爆で死んだ分家の伯父が残してくれた広島市西部の別荘に引っ越した。このとき64歳の母チハさんと三つ違いの姉と3歳になったばかりの美保子ちゃんのほかに、長兄の6人の子どものうち学童疎開していて助かった3人の子どもと、やはり親を亡くした姪の恭子さんがそろって移り住んだ。
 二階建ての別荘とはいえ、原爆で窓ガラスはすべて割れ、屋根には大きな穴があいていた。それでも住むところがあるのは恵まれたほうだった。半壊状態とはいえ別荘の住人はみるみる増えた。スミさんは追憶する。「焼け野原で、親を亡くした顔見知りの子どもに出会うと胸が痛んでね。それで、うちにおいで、おいでと引っ張ってきたんです」
 ほどなくして別荘は、スミさんが「数えきれんほどおった」と述懐するように避難者であふれた。最悪の食料事情――。銀座の「クローバー」から運んだ舶来の生地を差し出し、米や野菜と物々交換した。母チハさんは農家の手伝いをして野菜をもらってくるなど、別荘に大勢いた子どもや病人に食べさせるために、大人の女たちは身を粉にしたのである。
 避難者のなかにスミさんと同じ女学校の先輩がいた。原爆砂漠をふらふらと歩いているところを、スミさんが見つけて連れてきたのだが、不思議と無傷だったので安心していた。ところが、急性原爆症で8月30日に亡くなった。奇しくもこの日に、やはり別荘にいた分家の親戚のおばさんも死んだ。
 当時、中学1年の恭子さんは、突然命を奪われた死者たちの前で交わされた会話を覚えている。「悪いガスをようけ吸うたんじゃろう」「毒を吸うてしもうたんよ」。原爆放射線の正体がわからなかったため、「悪いガス」が口コミで広まったようだ。
 別荘近くの公園で、そうした遺体を焼いていた。穴を掘り、まきを敷く。まきは15束は要った。9月初め、スミさんの先輩とおばさんの遺体を大八車で運んだ。手伝っていた恭子さんは、憔悴した見知らぬ男性から声をかけられた。
「うちの子を焼いた穴ですが、使ってください」
 このとき12歳だった恭子さんは、人間が焼ける臭いを忘れることができないという。それは戦争の臭いであった。 

 ■食べ物から家電まで ■

 人々は焼け野原に帰ってきた。バラックの住まいがまたたく間に増えた。生きる者の声が響き、助け合い、支え合う。死者の異臭が薄れ、街は生活のにおいに満ちた。広島は復興へと歩み出していた。
 原爆が落とされて1年余、かつての繁華街の一角に、吉田スミさんは洋裁店「クローバー」を出した。勤めていた銀座の店がなくなっていたこともあり、愛着のある同じ名前をつけた。
 疎開先に預けていたミシンが運ばれた。東京から後生大事に持ってきた布地も大半は物々交換で消えたが、それでもわずかながら残っていた。白い生地でブラウスやパンツを縫い上げる。進駐軍の毛布を赤く染め、暖かいオーバーに作り替えもした。デザインを含めて品質は抜きん出ていた。銀座の「クローバー」で培った技術は本物であった。
 バラックの「クローバー」はにぎわい、スミさんは店に寝泊まりして孤軍奮闘する。「原爆で親をなくした子どもを大勢抱えていたので、みんなが食べていくために必死でした」。戦死した夫に顔向けできないことはしないと、自らを叱咤してきたと打ち明けた。「とにかく負けるのがきらいなんです。テニスをやっていたからでしょうね」。そう言って92歳のスミさんは笑うのだった。
 大勢の客が集まりだすと、もう一つの商売がおのずと始まった。進駐軍の将校相手の女性たちが舶来品を次々に持ち込んできたのだ。「この店で売ってほしいです」。スミさんは太っ腹で引き受けた。街のそこかしこで闇市が盛んだったこともある。
 現在、スミさんと同居している姪の中村恭子さん(74)は「クローバー」に並んだ品々を覚えている。
「缶入りのコンデンスミルクやラッキーストライクというタバコもありました。タバコを売ってはいけなかったので、MP(米軍憲兵)が見回りに来ると、みんなで一斉に隠したものです」
 商品は増えに増え、家電製品も登場するようになる。ドラム缶みたいな洗濯機や冷風機もあった。このため東京からわざわざ買いにくる客もいたそうだ。金持ちはいても、物がない時代だった。
 そんな時代ゆえに、スミさんは徹底して平等主義を押し通す。食べ物から着る物まで一貫していた。親のない子にみじめな思いをさせたくないとの意思からで、スミさんの口癖は「みんな、きょうだいだからね」。若いスミさんを支えた母チハさんは、折に触れて子どもたちに言い聞かせたものだ。「おカネがなくても、恥ずかしいことはない。誇りをもって生きていくのよ」
 戦後の復興は、スミさんら気丈夫な女性たちに負うところが大であった。

 ■ 細腕に心強い応援団 ■
 バラックの洋装店からスタートした「クローバー」が、広島流川教会の隣に新装オープンしたのは1950年のことだった。教会の土地の一部を分けてもらったのだが、この教会は被爆者支援に尽力を惜しまなかった谷本清牧師の平和運動の拠点として知られていた。原爆で親を失った子どもたちを育てている吉田スミさんの気根に、「精神養子運動」に取り組んでいた谷本牧師がうたれたのは想像に難くない。
 スミさんは振り返る。「小学生だった娘や姪を、お誕生日に呼んでもらうなど、谷本さんにはよくしてもらいました」
 広島の復興と重なるように「クローバー」は成長していった。お客さまをより引き立てる洋服を最高の素材で作る――これがスミさんのモットーだ。こうした商品主義に加えて、スミさんのファンが大勢いたことも、「細腕繁盛記」につながる。真っ直ぐに強く生きる姿に応援を惜しまなかったのである。その一人が自動車メーカー「マツダ」の基盤を築き上げた2代目社長の松田恒次氏だった。
 スミさんは懐かしそうに話す。「恒次さんは自転車操業のときに助けてくれましたし、下請け会社に買い物はクローバーでしなさいと言ってくれたりね。そうそう恒次さんの家に行って、お酒をたくさん飲んだこともありました」
 松田恒次氏といえば、大阪の松下幸之助氏と並ぶ西日本を代表する実業家だった。その松田氏が応援団を買ってくれたので、「クローバー」には芸能人もよく出入りした。なかでも「東京キッド」がヒットしたばかりの美空ひばりが買い物に来たときは、店の前が大騒ぎになったそうだ。
 そして――広島は原爆を落とされてから10年を経て、新しい都市としての顔を見せはじめる。街は区画整理が進められ、後に平和大通りとなる100㍍幅の道路が完成した。この年、「クローバー」は鉄筋三階建ての当世風な洋装店として、現在の「三越」前に店を構えた。繁華街の中心に出たのである。
 新しい「クローバー」は建築雑誌で紹介されるなど、それは目をひく建物だった。一階が店舗、二階がスミさんたちの住居、三階を「仕立て部」と呼んだ作業場に充てた。従業員はデザイナーとドレスメーカーを入れて20人はいた。陣頭指揮したのは、もちろんスミだった。
 時は流れ、「クローバー」は姪の一人が引き継いでいるが、つい最近までスミさんは顔を出していた。「よう働いてきましたよ」。戦争と原爆に負けなかった92歳の目が輝いた。

 ■ 娘思いのゴッドマザー ■

 女手ひとつで洋装店「クローバー」を興した吉田スミさん(92)に、甥や姪は「ゴッドマザー」の愛称をささげた。男の子3人の孫と2人のひ孫は親しみをこめて「ポパイバーバ」と呼んでいる。
 この孫の母親が中村美保子さんである。毎日新聞のパイロットだった父親を戦争で亡くしたあと、母親のスミさんに連れられて広島に疎開したとき2歳だった。65歳を迎えた今、子どもたちは独立して、夫の満義さん(64)と東京都内で暮らしている。
「小学1年からお店に住むようになり、お客さんやお店の仕立て場のお姉ちゃんたちに囲まれて、それはそれは耳年増になり、おませな子でしたよ」
 そう追想する美保子さんは屈託がない。すこぶる明るい。おませのころの写真を拝見すると、チャーミングな子どもの表情に大人びた目が輝いていた。
「お客さんのおばちゃんに映画を見に連れて行ってもらったとき、キスシーンになると私の目に手を当てて見せないようにするの。でも、しっかり見てるの。子どもは何も知らないなんて大間違いよ」
 そのころ美保子さんは、周囲のおばちゃんたちから毎晩のように聞かされた。「あんたは絶対に結婚しんさいよ。40歳を過ぎたら寂しゅうなるけーね」。というのは婚約者や恋人を戦争で失った女性がたくさんいたからだ。夢にまで見た結婚ができなかった悔やみの念は、このとき5歳の美保子さんにもしみじみと伝わった。
 美保子さんは中学を出たら店の手伝いをするつもりだったが、スミさんは口を酸っぱくした。「結婚してだんなさんに尽くすのが女のいちばんの幸せです」。その結婚相手は大人たちの会話から「慶応大学を出た人が良いらしい」と思った。で、美保子さんは慶大に入学する。笑って、こう振り返る。「広島弁を堂々と話すので、若い子は恥ずかしがってつきあってくれませんでした。笑って話し相手になってくれた人が、同級生の中村君でした」
 卒業してすぐに結婚した江戸っ子の中村君は、現在の鹿島建設社長、中村満義氏である。幸せな家庭に恵まれ、そして元気な孫が生まれた後に、スミさんから被爆者健康手帳を取るように強く勧められた。娘を案じた末のことだが、寝耳に水とはこのことだった。疎開先にいたため被爆していない、と美保子さんは聞いていた。実際は、スミさんが背負って広島に入っていたのだ。
 美保子さんは言った。「それは、びっくりしました。最初から知っていたら、絶対に結婚していなかったでしょうね」
 かのゴッドマザーは、娘思いの繊細な神経の持ち主でもあった。吉田スミさんの戦後史は、日本の母たちの、ひとつの記録であろう。

(この項おわり。07年9月の毎日新聞に連載)

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2007.12.31

平和をたずねて②

  ◎毒ガス島の伝言

  ■おぞましさに全身を貫かれ■
 初夏の日差しはやわらかく、瀬戸内海はまばゆく輝いていた。広島県竹原市の忠海港からフェリーに乗り、国民休暇村で知られる大久野島に向かう。ものの10分もすると、島の雑木林から巨大な廃虚がのそりと姿を現した。鉄筋三階建て、コンクリート造りの残滓を目の当たりに見て、私の旅人気分はすっとんだ。廃虚は火力発電場跡で、島がまるごと日本軍の毒ガス製造工場だった事実を、こうして今に伝えている。
 ふいと脳裏をよぎったのは地下鉄サリン事件の映像だった。毒ガスは目に見えないだけに、ばらまかれた様を想像すると、じわっと背筋が冷えてくる。しまいにはおぞましさに全身を貫かれる。そんな毒ガスを日本の軍隊はつくっていたのである。
 1927(昭和2)年8月のことだった。陸軍は大久野島を忠海兵器製造所の軍用地にすると通告して、3戸あった農家を立ちのかせた。不況が長引いていたこともあって、町をあげて軍需工場の設置を喜んだという。ところが2年後に完成したのは、なんと毒ガス製造工場だった。
 フェリーからおりると、大久野島毒ガス資料館を訪ねた。こぢんまりとした館内には、防毒マスクや毒ガスを詰める手投げ茶びんから液体毒ガス製造装置の一部さらには工員手帳などなどが並ぶ。いずれも痛ましい、そして哀しい展示品であった。
 この島で製造された毒ガスは、吸い込むと肺を冒すびらん性の猛毒「イペリット」、強い皮膚障害をきたす「ルイサイト」、それに青酸ガス、くしゃみ製ガス 催涙ガスもある。1925年のジュネーブ議定書で、毒ガス兵器の使用は禁止された。だが日本は批准せずに、陸軍は大久野島を地図から消して、秘かに毒ガスを大量生産したのだった。
 館内の大型ビデオから流れる声に思わず耳をそばだてた。「毒ガス兵器は、当時長期化しつつあった日中戦争で使用するため中国大陸へ送られ実戦で使われたと言われます。日本軍の毒ガス使用にによる死傷者は数万人と言われ、毒ガスの人体実験も行われたとされています」
 中国大陸では、兵士に限らず子どもやお年寄りも、この毒ガス苦しめられたにちがいない。そうして何人が死んでいったのであろうか。
 このやりきれなさは、決して過去のことではなかった。イペリットはマスタードガスとも呼ばれ、イラクがイランとの戦争で使っているからだ。
 やけどを負ったように顔や手や足の皮膚がただれたイランの男の子のパネル写真を前にして、私はしばらく動けなかった。

  ■「人道兵器」と洗脳■
 地図から消された島――大久野島の毒ガス史は、この人を抜きには語れない。村上初一さん、82歳、毒ガス資料館の初代館長である。なんといっても高等小学校を卒業した14歳の春から終戦を迎えるまでの5年半の間、毒ガス工場で学び働いてきた。確然たる生き証人。毒ガス資料館からの帰途、くしくもこの島を眺望できる、広島県竹原市の高台に村上さんを訪ねた。
 ざっと70年前、村上さんが小学生のころ、大勢の工員が船で大久野島に通勤していた。彼らをじろじろと見ようものなら憲兵に捕まったそうだ。本土を走る電車にしても、島側の窓はすべて覆われた。もちろん工員たちの口封じは徹底していた。
 村上さんは島に新設された陸軍の技能養成所で3年間学んだ。当然、化学の教科が多かった。だが「毒ガス」の名称は使っていない。すべて色で表示したといい、たとえば「茶」はシアン系をさした。
「化学兵器人道論」の授業は特異だった。村上さんは内容をそらんじている。「化学兵器は、その戦闘力を減殺するのが目的である。そのためには強いて人を殺す必要はない。ガスは拡散して広範囲に多数の負傷者を出す特性を持っているが、その傷害は一時中毒を起こすのであって後には快復するので、これは致死的ではない。故にその死亡率も究めて低いので人道的である」
 私は首をひねった。この非常識を養成工は真に受けたのだろうか。その点を尋ねると、村上さんはゆるりとうなずいた。「皇軍の兵器をつくるという、ある種のほこりさえありましたからね。私たちは挙国一致の精神教育に洗脳されていたのです」
 養成所から工場勤務になると、時々熱が出るようになる。38度を越すと、さすがに苦しくて島内の医務室に駆け込んだ。歯科までそろえた総合病院並の医務室を併設していたと知り、工員の悲劇の一端をかいま見た思いだった。
 村上さんは「急性気管支炎」の病名をつけられた。同じ症状の工員が毎日150人は医務室に来ていたという。〈島は毒ガスに汚染されてる、大久野島は「大苦之島」なのか……〉。17歳の村上さんは身震いを抑えきれなかった。
 戦後、恐れていた事実、知らなかった事実が次々と明るみにでた。元工員たちの毒ガス後遺症と日本軍による中国大陸での毒ガスの使用や遺棄……。村上さんは断固たる口調になった。「毒ガスの被害と加害はしっかりと語り継いでいかねばなりません」
 初代館長に村上さんを迎えて、「大久野島毒ガス資料館」がオープンしたのは1988年4月のことである。

  
  ■ガン発症に怯え■
 大久野島は瀬戸内海に浮かぶ周囲約4㌔の小さな島である。南側の海に面した毒ガス資料館のそばに化学兵器廃絶の宣言碑が建っている。大きな石に刻まれた一文に、私は目を奪われた。「……工員・徴用工・学徒・勤労奉仕ほかの人々は、働いているときはもとより、仕事をやめた後も呼吸器などの毒ガス障害に悩まされ、癌の恐怖におびえた毎日を送っている。死没者はすでに千名を超えたが……」
 昭和60年5月12日とあるので、この年の建立だろう。毒ガス後遺症の詳細を知りたくて、呉共済病院忠海分院の前院長・行武正刀さん(73)を訪ねた。広島大学医学部を卒業して、1965年から毒ガスに苦しむ患者を診てきた。9年前に定年を迎えたが、いまも嘱託医として勤務している。
 行武さんによると、毒ガス障害に医師が気づいたのは52年の夏だった。30歳の元工員が血痰と全身の倦怠を訴えて広島大学病院に入院した。地元の病院は肺結核と診断、しかし肺ガンだった。その原因を調べると毒ガス工場で働いていたことがわかり、初めて毒ガス障害の実態がクローズアップされた。これを機に忠海町で集団検診が始まった。
 圧倒的に多い症状が咳と痰で、行武さんはこう説明する。「薄い毒ガスといえども職場環境が劣悪だったので、長年の工場勤務で呼吸器の粘膜が悪化したのです。だから工場勤務がなくなっても、ひと冬ごとに症状は悪くなる一方でした」
 忠海分院には約4000人のカルテがある。鬼籍に入った患者も少なくない。慢性気管支炎と息切れ状態の続く肺気腫が主な症例だが、肺ガンになるケースも多くみられる。行武さんは話す。「呼吸困難の患者さんは息苦しそうで、お気の毒です。一言しゃべるたびに不自然な呼吸を余儀なくされますし、真夜中に激しく咳きこむのは体力を消耗します」
 行武さんは2年前、イランに出かけてイラクによる毒ガス被害者に会った。2歳の幼児は目を冒されていた。「戦争で使われた毒ガス兵器の恐ろしさは想像を絶するものでした。今後は生存者のなかに肺ガンが増えてくるのではと心配されます」
 そう聞くと、集団検診が始まるまでに死亡した元工員たちの人生に思いを馳せざるをえなかった。行武さんは、心なしか声を震わせた。「初期の患者さんは症状がひどかったはずなので、苦しんで苦しんで死んでいったと思われます」
 このとき私は行武さんの目に涙の膜を見た。まじめに生きてきた人たちを、こんなに苦しませていいのですか――。無言ながら、行武医師の目はそう訴えているようだった。

  ■差別、偏見、苦しみ今も■
 大久野島にフェリーが着くと、乗客は赤色の桟橋を渡って島に入る。夜来の雨もあがり好天に恵まれたその日、私は岡山県笠岡市立新吉中学の生徒たちの後に続いた。2年生53人の先頭に立つのは引率の教師ではなく、元高校教師の山内正之さん(62)だった。平和学習で島にやって来る生徒たちのボランティアガイドを務めている。
 一行は毒ガス資料館に直行し、大久野島の歴史と毒ガス兵器についてビデオで学んだ。このあと山内さんは生徒に語りかけた。「皆さんはここに来る前に、広島の平和記念資料館で原爆の悲惨さを知ったでしょう。大変な被害を受けました。今日はビデオにあったように、この大久野島で製造した毒ガスが、中国の人たちにいかにひどい加害を与えたか、そのことを知ってほしい。毒ガスも原爆と同じで、そこにある生命をすべて傷つけます。そういう歴史があるということを学んでほしい」
 山内さんが毒ガスに関心を寄せたのは、中国・黒竜江省で大久野島製の毒ガス後遺症に悩まされている7人の証言を直接聞いてからだ。1997年7月のことで、日本軍が終戦時に遺棄した毒ガス缶に触れて事故に遭った中国人の被害を検証しようと、村上初一さんが代表を務めていた「毒ガス島歴史研究所」が呼びかけたツアーに参加した。
 山内さんは振り返る。「呼吸器や皮膚などが冒されたうえ、いわれなき差別や偏見で苦しんでいました。人生を狂わされたと聞き、毒ガスは過去の問題ではないと痛感したのです」
 侵略された中国の人たちは、今も毒ガス事故の恐怖にさらされている。地雷や劣化ウラン弾もそうだが、人間同士の争いは終わっても、平和はずっと遠くにある。戦争の罪は計り知れない。
 慰霊碑の前で山内さんはハンドマイクを握った。「ここには大久野島で毒ガスを製造したり、戦後の毒ガス処理に従事して亡くなった人たちの名簿がおさめられています。犠牲になった人たちの気持ちを受け止めて、ノーモア毒ガス、ノーモア大久野島と訴え続けましょう」
 生徒たちは昼食を挟んで島内に残る毒ガス貯蔵庫跡や工場群跡などを、山内さんの案内で見学した。私は彼らが一心に聞き入るのを遠巻きに見守った。
 後日、生徒たちは感想文を書く。森田祐衣さんはこうつづった。「毒ガスの恐ろしさと被害を受けた人たちの苦しみが分かりました。絶対に毒ガスを造ったり使ったりしてはいけないと思いました」
 山内さんは言った。「教育の場は教室だけではありません」。教科書に載っていない平和学習が大事なことを、私はこの目で確認した。

  ■被害実態を広く知らせて■
 大久野島毒ガス資料館を訪れて日がたつにつれ、大小5枚のパネル写真が脳裏に占める割合が増した。イラン・イラク戦争時にイラクが投下した毒ガスにおかされたイランの子どもたちの悲痛な姿は、深く鋭く私に突き刺さってくるのだった。
 この写真の展示を毒ガス資料館に申し出たのが、広島市のNPO法人「モーストの会」と聞いた。理事長の津谷静子さん(52歳)を津谷内科呼吸器クリニックに訪ねた。彼女は薬剤師で、夫が開業しているクリニックに勤めながら、医療支援ボランティア「モーストの会」を主宰している。「モースト」はロシア語で「懸け橋」を意味するそうだ。
 4年前から毒ガスの被害に遭ったイランの村を次々に訪問している。今年も6月23日から10日間ほど5人で行ってきた。西部の村ネサーレディーレは人口が1000人足らずのところに、15発ものマスタードガスが投下されたという。
「大勢の村民が今も後遺障害に苦しんでいます。呼吸器障害のひどい方も多く、各家庭には旧式の酸素ボンベが置いてありました」津谷さんは声を詰まらせ、そして続ける。「視力障害の人は黒目の部分にリング状の傷があります。大久野島では見られなかった障害で、それほど強い毒ガスだったのです」
 被害者が求めたのは医薬品でも医療機器でもなかった。津谷さんを驚かせた一言は「私たちのことを広く知らせて欲しい」。実は「モーストの会」の一行が初めての外国人という村も珍しくなかった。
 津谷さんは決断する。イランのNGOと協力し合って、毒ガス被害者5名以上を含む約10人を広島原爆の日の記念式典に招いて交流会をすることにしたのだ。交流会は2004年からさっそく始まり、今夏もイランから9人が参加した。毒ガス資料館では日本軍が毒ガスを製造した事実を公表していることに賛同し、平和記念資料館では原爆の破壊力に驚き、被爆者の強い生き方に勇気づけられる――これはイランからの訪問者に共通していた。
 彼らは希望を胸にイランに帰り、広島を見習おうと声をあげた。その成果を今年の訪問で津谷さんは確認した。テヘラン市内の公園に平和資料館がオープンし、そばに高さ11㍍の平和モニュメントが建っていたからだ。これには目をみはった。毒ガスだけでなく原爆の被害を紹介する写真も展示されていた。除幕式は津谷さんたちを待って行われた。
「毒ガス被害を周知させることが最大の薬だったのです。医薬品ではなく、心の薬がいかに大事かを教えられました」。そう言って、津谷さんは深い瞳を輝かすのだった。(この項おわり。07年6月の毎日新聞に掲載)

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2007.12.09

平和をたずねて①

◎定年なき平和学者

  ■岡本非暴力平和研の創設
 原爆ドームにほど近いビルの3階に「岡本非暴力平和研究所」はある。小空間ながら、平和に非暴力を加えたところが所長で広島修道大学名誉教授の岡本三夫さん(73)らしい。広島市中区大手町に今年2月にオープンした。戦争やテロの直接的暴力だけでなく、飢えや貧困といった構造的暴力の根絶を目指す岡本平和学の集大成と言っていいだろう。
 岡本さんは栃木県の小さな町に生まれ、首都圏に15年、米英独に10年住んだ。香川県の四国学院大に日本で初めて平和学講座を開設して30年教える。平和学の泰斗。請われて広島修道大に移り、定年退職を迎える。そして今、広島をついの住居に決め、民間の研究所を立ち上げた。
「被爆者をはじめとするヒロシマ・ピープルとの出会いと、この地での思索が私の思想形成に及ぼした影響は計りしれないです」そう言って、岡本さんは明言した。「平和活動に定年はありません」
 立春をすぎた日、研究所の開所記念祝賀パーティが広島市内で開かれた。集った80人の顔ぶれから「ヒロシマの思想」が見て取れ、核兵器廃絶と恒久平和を絶え間なく訴えている人びとであった。
 平和と暴力。この見立てこそが岡本平和学であり、それはノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏の論文に触発されたものだ。「平和とは暴力の不在または低減である」と定義づけた論文は、「戦争と平和」のくくりではなく「暴力と平和」の概念を打ち出す。構造的暴力の不在を積極的平和、戦争の不在を消極的平和として、これらが平和学の基本的要素になると論じた。岡本さんは力説する。「人権侵害や環境破壊は構造的暴力です。そうした観点に立てば平和学は学際的で、決してイデオロギー的ではありません」
 あえて、民間の平和研究所を開いた、岡本さんの胸奥深くに宿るものは何だろうか。パーティ会場にいた元広島平和記念資料館長の高橋昭博さんに聞いてみると、こんな答えが返ってきた。「岡本さんが歩いてきた道の帰結でしょうね。まだ終われないんだと」。平和学は実践学だろうか。私はそんな思いに至った。
 広島大学名誉教授の北西充さんがマイクを握った。「厚労相の産む機械発言が問題になりましたが、こうした差別は構造的暴力のひとつです。戦争を中断させる平和だけでなく構造的暴力を大きなテーマとしてとりあげていって欲しい」
 岡本所長への期待の声は続いた。自他共に認めるように、平和学者に定年はないようだ。トレードマークのベレー帽がしっかりと頭に載っている。それは平和の象徴であった。

  ■広島の涙
 原爆ドームは春がすみに煙っていた。その下を風に押されて平和記念公園へと向かう。広島修道大学名誉教授の岡本三夫さんがかつて歩いた道をたどりながら、私は死者たちのうめき声を聞いたような錯覚におちた。原爆に殺された無縁仏は多いし、いまだに供養されず足元に眠る犠牲者がいる。
 岡本さんは初めて公園に足を踏み入れたとき、聖地に立っている――と感極まったそうだ。1968年5月22日の早朝、岡本さんは新妻の珠代さんと連れだっていた。ドイツから帰国し、四国学院大に専任講師として赴任する途中に新婚旅行を兼ねて広島に立ち寄ったのだ。
 穏やかな朝だった。平和な光にあふれていた。岡本さんは幸せのなかにいるがゆえに、異形の死を遂げた人たちの無念に自ずと思いをはせた。その一方、過酷な少年時代が怒濤のようによみがえった。嗚咽をこらえきれずに芝生に座り込んだ。すぐに大粒の涙がこぼれ、それは以心伝心で珠代さんに通じたのか、ついには夫婦で号泣するのだった。
 終戦を迎えたとき、岡本さんは国民学校の6年生だった。栃木県那須郡烏山町の食糧事情は最悪で、戦中から戦後にかけて一家は飢えと紙一重の生活を余儀なくされた。やがて家族の死につながる。満州で結核にかかって除隊した長兄は自宅療養中の1945年3月に25歳の若さで死去した。医者にまともにかかれず、医薬品もなく、栄養をとることもできなかった。戦争が終わったというのに、長兄の看病で結核に感染した母親は翌年に45歳で亡くなる。このとき妹は9歳、弟は4歳だった。悲劇は続き、父親も同じ病でほどなくして後を追う。
 従軍看護婦として中国に派遣されていた21歳の長姉が復員したことで、かろうじて子どもたちは生きながらえた。しかし空腹と栄養失調で体中におできが生じ、ノミやシラミに悩まされる。納豆売りや新聞配達をしてぎりぎりの生活を維持するも、家族の離散は避けられなかった。弟は養護施設に入り、妹は自ら命を断った。
 岡本さんは給費生の神学校から牧師を目指して米国行きの決意をかためる。1960年6月、日米安保闘争をよそに横須賀港から移民船に乗った。
「もう二度と日本に帰らないつもりでした」そして岡本さんは、しぼり出すように言った。「船上から、ばかやろう、と大声で叫びましたよ」
 捨てたはずの日本に、岡本さんを10年ぶりに帰国させたのはペンフレンドの珠代さんにほかならない。夫婦して泣いた、あの広島の涙こそが平和学者・岡本三夫のスタートであった。

  ■平和学の現場
 世界78カ国・地域の留学生を受け入れている立命館アジア太平洋大学は大分県別府市の高台にある。岡本非暴力平和研究所の所長で広島修道大学名誉教授の岡本三夫さんはトレードマークのベレー帽をかぶり、ディパックを背負ってひょうひょうと姿を見せた。今年1月中旬のことで、平和学の集中講義にやって来たのだ。
 平和学は四国学院大文学部を皮切りに、全国の約50大学で開講されている。岡本さんがアピールしてきた成果だが、それでも不満のようだ。「広島、長崎の被爆体験と無防備平和主義の憲法九条を持つ日本の大学にこそ平和学部が欲しい。大それた未来につなげたいではありませんか」
 私は平和を主語にして考えた。平和はいかに学ばれるのか、いや学ばれるべきなのか。岡本さんのいる教室を訪ね、授業を傍聴させてもらった。
 人種も国籍も異なる約50人の生徒が岡本さんと向き合っていた。なんと、この日の講義は靖国問題だった。靖国神社の歴史から現在の状況を解説し、生徒の質疑に応じる。こうして熱い時間が流れた。
「実は学生からリクエストがあって、靖国をとりあげたのです」。岡本さんはそう打ち明けた。私は改めて尋ね直した。「そもそも平和学とは?」
 岡本さんは人差し指を立てた。「現代の平和学は原爆が投下されたのを契機に、米ソの核戦争はどうしたら回避できるかという関心から生まれました。今や平和学のテーマは多彩で、戦争の歴史からテロ事件さらには環境破壊や人権侵害も入る。つまり日常生活に積極的な平和を求めることが大事です」
 岡本さんは講義の最後に宿題を出した。あなたは身の回りで、どのような平和活動ができますか――このリポートを出すように伝えて、自身のメールアドレスを板書するのだった。講義はすべて英語で、「ピースアクション」の言葉が頭と胸に響いた。私は課題を与えられたと思った。
 授業を終えた留学生の1人に、なぜ平和学を選択したのか問うた。スリランカ人のプレビーナさん(22)は即答した。「日本はどうして平和を維持できているのか学びたいからです」。この答えは、私には新鮮で、少なからず衝撃だった。内紛をかかえたり政情が不安定な国からの留学生に共通する発露だという。岡本さんはつけ加えた。「憲法九条を学びたいという留学生も多いですよ。途上国の留学生が日本に求めているのは技術だけではなく、日本の平和もまた魅力なのです」
 その夜、別府市内のすし屋のカウンターで岡本さんと肩を並べた。「平和学は深奥ですね」。私は率直に言った。岡本さんは静かに笑っていた。

  ■「9・11遺族の会」と交流
 ニューヨークは祈りの街と化していた。春の風が涙にむせび、数々の千羽鶴が教会を彩った。2002年の春のことで、岡本三夫さんは行動する平和学者らしく、8人の被爆者を含む19人で「ヒロシマ・ナガサキ反核平和使節団」を編成してやって来た。
 訪米の最大の目的は、前年9月11日に起きた同時爆破テロで犠牲になった遺族の集い「平和な明日を求める九・一一遺族の会」との交流だった。互いに協力しあって、事件現場の世界貿易センタービルの跡地近くで追悼集会を執り行う。団長を務めた岡本さんは「見えない絆でかたく結ばれました」と振り返る。爆破テロの後、行方不明の肉親を必死で捜し求めた遺族の心情が、キノコ雲の下で同じ行動に駆られた被爆者と重なり共鳴しあったからだという。
 岡本さんはしみじみと語る。「罪のない市民が無差別に殺されてしまう怒り、突然に愛するものを失った悲しみ、この心情に国境や民族の壁はありません。東京大空襲でも南京大虐殺でもアウシュヴィッツ収容所でも同じです。九・一一遺族会の方々の生々しい証言は平常心では聞けませんでした」
 だが、感動がすべての訪米ではなかった。ワシントンで「ヒロシマ・ナガサキ反核平和使節団」と大書した横断幕を掲げてデモ行進した際には、「リメンバーパールハーバー!」の怒声を浴びた。岡本さんは強く言う。「リメンバーの叫声には報復を鼓舞する響きがあり、ノーモアとは対照的だと思います。ノーモアは暴力を否定した平和的手段による、平和への誓いなのです」
 その意味では、「九・一一遺族会」の姿勢に私は胸をうたれた。悲しみの消えない心をいだいてアフガニスタンを訪れ、米軍の空爆で肉親を失った遺族を慰問している。自国の米政府に対しては、遺族を利用して空爆しないで欲しい、と訴えもした。
 岡本さんは強調するのだった。「遺族会と訪米した日本のグループが主張しているのは、暴力によらない人間関係、民族関係、国家関係なのです」。まさに岡本平和学の真骨頂だろう。
 ひるがえって07年春の広島。「岡本非暴力平和研究所」は発足して3ヵ月になろうとしていた。私は「NYの絆」を念頭に、岡本さんと国際平和交流の大切さを話し合った。最後に岡本さんは「実はね!」と、弾んだ声で言った。「ドイツの20代の青年を受け入れることにしました。老人ホームや福祉施設で働きながら、この研究所でヒロシマと平和の勉強をしてもらいます」
 平和の芽は、ぽつぽつとであっても、国際的規模で広めていくことが肝心なのだ。ひいては地球環境の平和につながるからである。

 ※岡本三夫(おかもと・みつお)さん。 1933年生まれ、ハイデルベク大博士課程修了。四国学院大教授を経て広島修道大名誉教授。89年から2年間、日本平和学会長を務める。
(この項おわり。2007年5月の毎日新聞に掲載))

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