平和をたずねて⑦ 強制労働 証言のタコ部屋
◎平和をたずねて⑦
◎強制労働 証言のタコ部屋
■北海道開拓の陰で■
そもそも取材の発端は、今年5月に京都の龍谷大で開かれた「墨描・中国人強制連行の図」展だった。札幌市在住の画家、志村墨然人さん(85)が13年前から描いてきた20点が披露されたのだが、縦172㌢横364㌢の大作もあり、ともかく迫真にあふれていた。
私が関心を抱いたのは墨絵もさることながら、志村さんの経歴だった。中国人労働者の収容寮で管理事務員をしていたというから、この絵は「内部告発」に等しい。
「自責と償いをこめて描いてきたのであって、発表する予定などありませんでした。これだけまとめて展示したのも初めてです」志村さんは会場でそう語り、穏やかな口調で確かめてきた。「タコ部屋のルーツは、ご存じですね」。私はあいまいな返答しかできなかった。志村さんは嘆いた。「そのことがわかっていないと、中国人の強制労働は深く理解できないと思うよ」
私は出直すことにして札幌市内の北海道開拓記念館を訪ねた。文字通り北の大地の歴史を知ることができる。「開拓期の社会問題」と題したパネルを読んだ。〈道路や鉄道などの建設事業には、多数の囚人や「タコ」と呼ばれた土工夫(土木労働者)が過酷な強制労働に従事させられた〉。当初は、政治犯を含む受刑者を開拓事業に積極的に投入している。殴る、蹴るの暴行を加えて、長時間にわたって酷使するので、犠牲者が後を絶たずに社会問題化した。掲げられた新聞記事の見出しに私は目を奪われた。〈病死土工は折檻の結果〉〈逃走土工が監獄行きを志願 部屋の酷使より好いと〉
「囚人労働」が廃止されて「タコ部屋労働」が生まれた。こう解説している。〈本州各地から集めた土工夫を飯場に収容し、開拓のためのさまざまな土木事業に強制的に駆り立てる労働形態であった〉〈タコ部屋の多くは工事現場近くの山間にもうけられた。管理人―世話人―棒頭―取締人という組織のもとで厳しく監視されながら強制労働が行われ、多くのけが人や死亡者をだした〉
「タコ」のルーツは北海道の開拓事業であった。地元で雇った地雇に対して、他所で雇った他雇は、斡旋業者の口車に乗せられた本州の失業者や貧しい農民が多かったという。戦局が厳しくなると日本人の男子は赤紙一枚で戦場へと行かされ、鉱山の採掘現場などは深刻な労働力不足に見舞われた。この穴埋めに朝鮮人と中国人がタコ部屋に連れ込まれたのである。
その時、志村さんは22歳だった。1945(昭和20)年4月下旬、北海道・積丹半島の西海岸に近い発足村に鹿島組の「泰山寮」が完成した。といっても、解体済みの朝鮮人労働者用の宿舎を組み直したにすぎない。
当時の現場跡を案内してくれた志村さんは、こう振り返った。「風呂もなく、タコ部屋そのものでした。別名を監獄部屋とも言い、出入り口は外からかんぬきを下ろし、窓という窓には木の桟がはまっていました」
ここに196人もの中国人が連れてこられたのは、その年の6月5日のことだった。
■亡霊のような196人■
海峡を越え、下関から列車に揺られ、北海道西南部の小さな村に連れてこられた196人の中国人は、亡霊のようだった。そうとしか見えなかったと志村墨然人さんは追想する。鹿島組玉川出張所「泰山寮」の管理事務員だった志村さんの前で、作業現場を預かる親方や木刀を手にして強制的に働かせる棒頭たちは「これじゃ使えねぇな」と舌打ちした。
「背負われたり、抱きかかえられた中国人も目立ち、痛々しいほど憔悴しきっていました。貨物船内で4人が死亡し、遺体を海へ投棄したとも聞きました」
むしろ敷きの板の間に起居する彼らに支給されたのは、上下1枚の布団だけである。布団といっても名ばかりで、紡績工場で出る糸くずなどのゴミを詰めこんだ代物だった。薄汚れた衣服の着替えや傷んだ布製のクツの履き替え品はなく、着の身着のままであった。
食事もひどすぎた。豆の粉を水でこねて、こぶし大に丸めて蒸し上げた「饅頭」しか与えない。それも食事時間に2個だけ配られた。副菜はなく、褐色の岩塩を湯にとかした塩汁が添えられたにすぎない。
「こんなものを食べさせるのかと思いましたが、口に出せる状況ではなかったです」志村さんは無念そうに継いだ。「風呂がないこともあって、疥癬という皮膚病が悪化してきたので、イオウ入りの湯桶で行水をさせようとしたら、勝手なことをするなと上司からこっぴどくしかられました」
そんな「泰山寮」の中国人労働者たちの仕事は、玉川鉱山で使う沈澱池の造成作業だった。彼らは終日、50キロの畚(もっこ)担ぎを強制された。典型的な「タコ部屋労働」であった。大幅な工事の遅れを取り戻すために、中国・山東省の日本軍済南捕虜収容所から連行してきた「捕虜」だと、志村さんは聞かされた。
敵国の捕虜が死のうが、生きようが知ったことではない――タコ部屋には、そんな空気が充満していた。
しかし戦後になり、彼らは「捕虜」でなかったとわかる。志村さんは語調を強めた。「山東省の村で見つけた中国人男性を、抗日運動をしていたなどと勝手にでっちあげて、日本軍は捕虜収容所に連れ込んだ。その後、傀儡政権下にある日本軍の息のかかった華北労工協会という組織を通じて、雇用契約を結んだように偽って日本に強制連行したというのが真相です」
彼らの平均年齢は35歳だった。72歳の老人がいる一方で背の低い、色黒の小さな男の子がいた。名簿を見ると17歳だった。不審に思って志村さんが確かめると、実は14歳だと明かした。野良仕事をしていたら、大人と一緒に日本軍に拉致されたというのだ。
「子どもを含む一般大衆まで、手当たり次第に引っ張ってきたのです」
告発の墨絵を描き続ける札幌市在住の画家、志村さんの顔がゆがんだ。85歳の顔は、何もできなかった当時を懺悔しているように見えた。
■消えぬ死臭の記憶■
札幌市在住の画家、志村墨然人さん(85)が執念の筆をとった「墨描・中国人強制連行の図」は23点が完成している。それぞれに志村さんの贖罪と自責の念がこめられた告発の絵図だが、あえて印象深い1点を選んでほしいと頼んだ。志村さんはためらわなかった。
それは「無残や、熱気で膨れた死者」と題された墨絵である。腹部が破裂せんばかりに膨れた2人の中国人労働者の死の床を描いている。志村さんは語った。
「眼窩が落ちくぼんだ顔は骸骨のようで、手足も棒きれみたいになっていました。でも、おなかは風船のように膨れて、薄くなった皮膚の下をオリーブオイルのような脂肪が流れているのです。体内に発生したガスによって腹部が膨らんだのだと思います」
1945(昭和20)年の夏は日照り続きの猛暑が続いた。炎熱下の強制労働による病人や重傷者が後を絶たないため、「泰山寮」の横に傷病者を収容する小屋が造られた。7月末のことで、12畳ほどの板の間に7人から10人が瀕死の体で常時横たわっていた。先の2人は8月10日から11日にかけて、ここで相次いで死んだ。逃亡を防ぐため密閉状態にしていたので、熱中症にかかって亡くなったとみられる。
志村さんは私を直視した。「医者がいるわけではないし、薬だってないのですから、いわば見殺しでした。もっと率直に言えば、見殺しにしてもいいとの前提に立っていたと思います」。それがタコ部屋制度のなかに潜む不条理であり、業態のおぞましい不文律であった。
タコ部屋への中国人強制連行は閣議決定による。42年11月、東条英機内閣は閣議において「華人労務者内地移入ニ関スル件」を決定した。この方針によって、北海道から九州に至るまで全国135の事業場で、約4万人の中国人が強制労働につかされたのである。そのあげく6830人が非業の死を遂げた。
火葬も志村さんの仕事だった。粗末な棺箱に納めた遺体をリヤカーに乗せて、火葬場まで3㌔の道を運んだ。死者が絶えず、いつしか通い慣れた道になっていた。
2人の「熱気で膨れた死者」は、腹部が異常に膨れていたため棺箱に入らなかった。皮膚がむけ、体液がしたたり落ちる遺体は炎天にさらされた。今でも死臭を記憶している、と志村さんはつけ加えた。死臭の記憶。この言葉は私の耳に残った。
「遺体は薪で焼くのですが、下腹部から胃にかけて、なかなか焼けなかった。ひどく臓器が傷んでいたからです」志村さんの目に、うっすらと涙が浮かんだ。「2人の魂は故郷に帰れるだろうか、仏教でいう極楽にいけるだろうか、念仏を唱えては自問した覚えがあります」
燃えない遺体は、死にたくない、故郷の家族に一目だけ会わせてほしい、と訴えていたに相違ない。志村さんは敗戦までのわずか2カ月に、なんと15体の死者を見送った。火葬場には、中国人労働者たちの無念の恨みが積もっていたことだろう。
■終戦直前 必死の脱走■
タコ部屋の朝は、起床を告げる午前5時の怒声に始まる。点呼の後、中国人労働者たちは近くの作業現場で強制的に働かされた。その日、1945(昭和20)年7月18日のことであるが、点呼の際に8人がいなかった。鹿島組玉川出張所「泰山寮」の管理事務員、志村墨然人さんが顔色をなくしたのは言うまでもない。
姿を消したのは20代から30代の元気な部類の男たちだった。寮内をくまなく捜し、外に出ては目を凝らし、再び寮内に戻って見渡した。出入り口は施錠されており、窓という窓の桟も破られていなかった。
「キツネにつままれたみたいでした。実は、砂地を素堀りした大便壺に潜りこんで土砂をかき出してはトンネルをつくり、そこから戸外にはい出ていたのです」
今でこそ、「驚きましたよ、それは」と話す85歳の志村さんだが、当時はそんな状況ではなかった。鹿島組の秋田県花岡出張所「中山寮」で6月30日に中国人労働者が一斉に蜂起し、4人の日本人と親日とみられた中国人1人の計5人が殺害される事件が起きていたからだ。いわゆる花岡事件で、鎮圧後の拷問により7月の死者は100人にのぼった。ちなみに「中山寮」では986人中418人もの死者を出すなど突出していた。
さて「泰山寮」だが、その日の夕方までに農家の納屋などに隠れていた7人を次々に見つけ出した。3日後、最後の1人を山中で発見している。志村さんは言った。「腹は減るし、作業はきつく、米軍のB29爆撃機が投下する爆弾も恐ろしい、それで必死で脱走したと、後で聞きました。彼らの気持ちは痛いほどわかります」
岩内署に引っ張られたのは脱走した8人にとどまらなかった。中国人のまとめ役をしていた隊長と班長ら9人も連行されたのだ。そこでの拷問はすさまじかった。殴る、ける、逆さづりにする、鉄火箸を当てる……。志村さんが知り合いの巡査部長から耳にした話では、憲兵隊が加わると敵意をむき出しにしたという。
たぶん生きては帰れまい、そんな観測が流れていたところ、隊長を除く全員が突然釈放された。異例ともいえる現場復帰であった。
「この隊長は日本軍と抗戦していた国民革命軍第八路軍の将校だったとみなされたようです。憎むべき八路の将校なら、こいつだけで十分だ、脱走事件の首謀者として銃殺してしまえ、という意見が出たと聞きました」
脱走事件から1カ月もたたない8月15日に戦争が終わり、17日に内務省は「中国人解放」の通達を出した。しかし隊長の拷問は23日まで続いた。志村さんはこう推断する。「憲兵隊は15日までに銃殺できなかった悔しさもあって、自白を強要しようとしたのでしょう」
米軍の進駐が決まると、憲兵隊は態度を一変させて岩内署から去った。隊長は解放を装って、遠く離れた別企業の事業所に移された。
「あの隊長が本当に八路の将校だったかどうか……」志村さんは首をかしげた。「銃殺されなかったことだけが、せめてもの救いです」
■人間の深い闇■
ひたすら描いては、そのまま眠りにつく。ただ、それだけの小さな空間に見えた。「墨描・中国人強制連行の図」の画家、志村墨然人さんのアトリエを訪ねたとき、私はつい口にだした。「水道がないのですか」
志村さんは軽やかに答えた。「水は、お隣さんからわけてもらっています。それで十分、自炊できます」
自宅は札幌市だが、アトリエは北海道岩内郡共和町にある。大陸から連行してきた中国人を強制労働につかせた作業場とタコ部屋のあった場所が近い。あえて志村さんが、この地を選んだのは不退転の決意の表れだろう。
私は描きかけの絵図を見せてもらった。軍事裁判の法廷場面だから、これは穏やかではない。聞けば、労働者の通訳だった中国人男性と共謀した「華人労働者虐殺容疑」をかけられたという。こういうことである。
昭和天皇の玉音放送が流れ、「タコ部屋労働」に終止符が打たれた1945(昭和20)年が終わり、新しい年を迎えた1月9日のことだった。北海道拓殖銀行の赤煉瓦の本店庁舎に置かれた米軍第77師団の司令部に出頭を命じられたのだ。凍えるような寒い朝だった。
志村さんは振り返る。「最初は遠回しに何人死んだ、どういう処置をしたのかと追及してきました。そのあと軍用コルトを2丁手にして、『うそをついた人、銃殺ね』と威嚇するのです。相手は米兵ですから、震え上がりましたが、断じて虐殺などしていない、病死だったと言い張りました。事実そうですからね」
志村さんの主張は通り、逮捕されずに済んだ。ことの真相は、中国人同士の主導権争いだった。二代目隊長を兼ねていた穏健派の通訳と強硬派の炊事班長が激しく対立したようだ。日本の敗戦で立場が変わったのだから、彼らの要求が強くなるのは当然でもあった。この炊事班長が事実を曲げて米軍へ密告したため、通訳と志村さんの上司や発足村駐在の警官、岩内保健所長らが「華労虐殺容疑」に問われた。通訳はすでに逮捕されていた。
「上司たちは、札幌に行っていた若造の私にすべてをなすりつけたんです。それで私に、中国人労働者を虐殺した容疑がかかった」。志村さんは声を強くするのだった。「腹の底から、人間不信に陥りました」
米軍による軍事法廷は1月16日から19日まで4日間にわたり、旧札幌市役所3階の大講堂に星条旗を立てて開かれた。虐殺の事実などありません、と志村さんは繰り返し、全員に無罪判決が下りた。通訳は泣いて喜び、体力の回復をまって、2月17日に帰国の途についた。
「花岡事件があった秋田の事業所のように、人道の罪を問うBC級戦犯の事実はなくても、中国人をタコ部屋に入れて強制労働させたことはまぎれもありません。私が加害者の側にいたのも事実です」
人間の深い闇を見た志村さんは、軍事裁判が終わると放浪の旅に出た。妻を見送り、72歳になって、告発の絵図の筆をとった。今、85歳を迎えた。絵図は未完である。志村さんの戦後は終わっていない。(この項おわり。08年9月~10月の毎日新聞大阪本社管内版に連載)
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